私の元気のみなもと

                              ー 東京マラソンを3回走って


 〔第4回関東ウィメンズクラブ交流会/ミニ・トーク原稿〕               久慈 真里 (学30C)

 ただいまご紹介に預かりました、久慈真里と申します。関東ウイメンズくらぶ設立発起人のひとりです。関東ウイメンズも、今年で4年目に入ります。毎年3月の最終土曜日に定例の集まりを持ち、関東に集う外大女子卒業生の輪は4年で大きく広がりました。

 まず初めに、私のような学生時代は優等生でもなく、何のとりえもない、ただの専業主婦が皆さんの前で15分もお話しするあつかましさをご容赦いただきたくお願い申し上げます。今日はこうして皆さんの前でお話するテーマとして、外大を卒業して30年近く、夫と2人の子どもたち、そして昭和1桁生まれの4人の親と共に、ただの主婦として、平凡だけれど元気な人生をどうやって歩んできたか、また、ここ5年近く楽しんできたマラソンという趣味についてお話ししたいと思います。

                               


 この4〜5年は、ちょうど関東ウイメンズの足跡と時期を同じくしており、私は、この関東ウイメンズの輪がいっそう広がっていくのを楽しみにしておりました。
 まず自己紹介として、大学卒業後の29年のプロセスを簡単にお話します。

 私の外大時代の専攻は中国語。漢詩を中国語で読みたかった、また、中学時代に読みふけった井上靖の西域ものにあこがれて選んだ学科でした。
 ところが入学後は4人組批判ばかりの文化大革命の遺物を拾い集めるような世界がそこにあり、中国の暗部を見ることからスタートし、中国に対するモチベーションが急降下しました。片や、楽しい大学生活を中国学科の先輩方に学び、演劇部に在籍し芝居三昧、優等生とはいいがたい外大生活が始まりました。
 とにかく密度の高い、かなり濃密な青春を謳歌したとだけ言っておきましょう。また、この4年がその後のすべての原動力になったということは断言できます。人生の畑がそこであったともいえます。

 神戸でポートピアという博覧会が開催された1981年に無事4年で卒業し社会人としてスタートを切りました。
 入った会社の本社は東京ですが、主に地元企業である神戸製鋼の、PR誌、社内外広報誌などの編集出版を行う神戸支社に7年勤め、長男出産の間際 1988年に退社しました。出産後、子どもを預け、カメラを担いでの取材や出張のある仕事を続けられなかったからです。

 その後、フリーのライターや編集者を経て、つい最近の学習塾の経営まで、子育てをしながら、夫の勤務地にあわせ、いろいろな形でいろいろな仕事をしてきました。
 女性が結婚し、育児をしながら就労することの意味と現実を見つめ続けた20年間でした。

                                


 私の生活拠点は、第1子出産後、夫の転勤もあり、生まれ育った関西を初めて出て東京に。以後、海外生活をあしかけ6年。そして15年前に帰国し千葉県浦安市に居を定め、この度、関西に戻りました。
 海外駐在の間にC型肝炎を発症、インターフェロン治療とその副作用、30代はほとんど病院と縁が切れることがありませんでした。この肝炎の感染は、昨今騒がれました薬害です。出産時、難産に加え、大出血で、止血剤と輸血により感染しました。学生時代の仲間には飲みすぎといわれましたが・・・

 30歳の出産で感染、C 型肝炎がわかったのは33歳、感染後約12年で確実に肝硬変から肝がんに移行すると京都大学の先生に言われました。子どもが中学に進学してすぐ死ぬわけには行かない、と、当時はまだよくわかっていなかったインターフェロン治療に挑む以外に方法はありませんでした。

 3割しか完治しないといわれましたが、私は強い副作用の反面、よく効いて、約1年の闘病で完治しました。病気になったのは不運でしたが治療はラッキーでした。副作用から立ち直り、気がつけば30代後半になっていました。

 この闘病が私の人生観を変えました。40歳を前にして周りの反対を押し切り勇気を出して第2子を出産。今年、やっとその子どもが中学生。第1子は30代に闘病をしながらの子育てでしたが、病気を克服してからの40代は、健康のありがたみと闘病を支えてくれた夫と両親、きょうだいに感謝しつつ子育てに明け暮れました。
 取り戻した命と健康なので、必要とされるならば、自分が役に立てることは公私を問わず何でもやりました。今、周りの人から、どうしてそんなに元気なの? と聞かれることがありますが、多分、私が元気そうにみえるのは、もとから元気な人ではなく、取り戻して勝ち得た元気だからなのかも知れません。

 40代の後半にさしかかったころ、家事、育児、在宅での仕事、地域のボランティアなど何役もこなしながら、ちょっとした壁にぶつかりました。その時、負のエネルギーを溜め込むとよくないと思い、ウオーキングをはじめました。半年ほど歩き、ちょっと走ってみようかなとランニングも始めました。最初は1キロ走るのがやっとでしたが、これがマラソンとの出会いでした。

                               


 2007年、記念すべき第1回東京マラソン。その前年、朝のランニングで2〜3キロを走り始めた私は、浦安ベイマラソンで3キロのコースを気持ちよく走れました。これに気をよくし東京マラソン10キロに応募しました。その前にリハーサルのような形で浦安ベイマラソンの10キロにエントリーし、これまた、快走できたので、初の東京マラソン10キロに挑みました。

 ところが、2日前に熱を出したこと、当日が朝から氷雨のふる最悪のコンディションで、8キロ地点、竹橋の手前で朦朧としてしまいました。大げさではなく死ぬかと思った、これが初東京マラソンの感想です。
 なんとか完走しましたが、完走の余韻というより、ずぶぬれで日比谷公園内の荷物受け取りのトラックの列に並んだ姿は情けない状態でした。また、歴史建造物にも匹敵する日比谷公会堂の中で男女いりみだれて(!)臆面もなく、着替える様はなんとも異様で衝撃的でした。私は、家族が周りをタオルで囲ってくれました。この年のゴール時にいただいたバナナは実に硬くて熟していない美味しくないものでした。
 1回目は何とか完走の満足半分、ほろ苦さ半分でした。

 東京マラソンは、2007年の10キロ体験を皮切りに、2008年には初フルマラソン、2009年、2回目のフルマラソンと3回続けて抽選に当たる幸運に恵まれました。初回から抽選倍率はどんどん上がり、2008年の第2回が絶好のマラソン日和だったためか、2009年の倍率は35,000人の枠に26万人の応募があり、7.5倍を超えたとききます。
 3回目があたったときは、中学受験をひかえた娘に「頼むからこんなところで運を使い果たさないで」といわれました。

 まる4年のジョギング歴ですが、私の日々のトレーニングは朝の30分のみ。距離にすると5キロぐらいです。これはトレーニングというより、四季のうつろいを肌で感じながらの瞑想の時間で、毎朝、家事を始める前の6時からのランニング30分は、抽象的なこと、哲学的なこと、その日の段取り・・・まさにメディテーション、私の至福の時間となりました。

 また、この30分は自分の体と向き合う時間でもあり、私にとって走ることは、体調をチェックするだけでなく、自分が自然界の中で、「ヒト」という動物であることを思い出させてくれる瞬間で、いつも原点に返れるような気がします。

 一般の市民ランナーからすると、月間の走行距離の多くない私にとって2008年の初フルマラソンの前は、やはりハーフ以上を走るべしということで、吉沢さんという大先輩に都内のコース試走をお付き合い願いました。

                               


 ここで吉沢佳子さんとの出会いについて少し話します。
 関東ウイメンズを立ち上げの2006年、私は発起人の1人として、外大の卒業生仲間と何度か会う機会があり、その中に吉沢さんがおられました。当時御年64歳。腕を見ると、私と同じ、ランナーズがよく使う時計が燦然と輝いているではありませんか!

 当時私は走り始めて、ちょうど1年くらい、東京マラソンの10キロにエントリーしたところでした。ランニングの話題を振ると、なんと59歳のマラソン開始で、以来、世界の大きな大会に市民ランナーとして、何度も完走経験をお持ちでした。その歴戦の数々の証、完走記念メダルを2007年の関東ウイメンズで講演をお願いしたときに見せてもらいましたが、還暦近くでマラソンを始めたという彼女の話、存在そのものが、スポーツの常識を覆すような内容ばかりでした。とても衝撃的な出会いでした。

 というわけで、初回より3回とも東京マラソンは、吉沢さんと共に走り、毎回本番前に、何度かにわけ、コースを試走し都内を楽しみました。試走途中、銀座のキムラヤで汗みどろのスパッツ姿のまま、パフェを食べたり、雷門近くでラーメンを食べ、店主の奥さんから激励されたり、三越本店で和菓子を買い食いしたり、楽しい思い出ばかりです。
 また皇居近くのトイレスポット、お風呂屋さん、荷物を置いて、シャワーが使えるランナースポット、国立競技場のトレーニングセンターの使い方など、ランナーズクラブに所属しないで、1人で走る私は、吉沢さんからいろいろな楽しみを分けていただきました。

 東京マラソン効果からか、最近ちょっとしたランニングブームで、若い女性の、夕刻の皇居周辺のジョガーがふえ、彼らのことを”美ジョガー”というらしいです。われわれ2人も、自称”お姉さま美ジョガー”です。

 少し東京マラソンをランナーの側から見た話をします。キャラクターの被り物やさまざまなコスチュームを身につけて走る人がいます。同じランナーとしてみていて楽しいですが、自重が重いのでそういう人はよほど走力のある人だと思います。また、赤い風船をつけて走るのはドクターランナーです。後は背中や胸にメッセージをつけて走る人もいます。
 2008年の大会時、ゴール手前で背中に「今日は僕の誕生日。27歳になります。お母さん僕を産んでくれてありがとう!」と書いた青年がよたよた走っているのを追い抜きました。浪人中の我が息子の姿とダブり「誕生日おめでとう!がんばれ27歳!!」と声をかけました。

 素顔の芸能人ともよく出会います。2008年の私が雷門に向かう途中、雷門方向から来た猫ひろしさんに会いましたが、とても快調なスピードで、かなわないと思いました。スピード的には東国原知事や鈴木宗男さんは3時間台で走るサブ4を狙う人たち、ぎりぎり4時間台の私より一段階上のランナーという感じです。今年はエドはるみさんと言葉を交わしましたが、彼女はとてもゆったりマラソンを楽しんでおられました。また今年危険な目にあわれた松村さんは、1年目、日比谷公園でインタビューをされていて、娘がマイクを向けられました。
 今年は私と同じあたりからのスタートで、芝から品川折り返しの間の13〜14キロ地点で、私が通過した後、お倒れになったようですが、現場は見ていません。

 東京マラソンの人気の秘密は、沿道の応援が途切れないことだといいます。親しい人、家族、応援している人は携帯でランナーの居場所を検索し、メトロを駆使して、何回もポイントごとに追っかけ、応援することが出来ます。
 私と吉沢さんも初回から、関東ウイメンズの面々に熱い声援を送ってもらい、それが大きな力になりました。

 給水や給食は年々よくなっています。初回は10キロでしたので、5キロ地点・飯田橋の給水体験のみ。給食はゴール後のバナナでした。2008年のフルマラソンの給食は遅いランナーがポイントに到着したとき、あまり残っていませんでした。今年は、公式の給食は完熟バナナで、味も濃くすごく美味しかったので何度も食べました。量もたっぷりありました。パンや氷砂糖もありマラソン中はいっぱい食べます。個人の差し入れもあります。銀座あたりではチーズケーキが出されたり、お汁粉が出されたり。私が一番うれしかったのは、豊洲の40キロあたりでアサリの味噌汁を出してくれた方があり、ランナーに飲みやすい温度で、疲れた体には感激でした。

 また、食べ物ではなく、エアーサロンパスを差し出す手がすごくうれしく、私はこの恩恵を何度も受けました。

 もうひとつ、同じ大学のゼッケンをつけたりTシャツを着たり、グループで参加しているところがあります。私が2007年に見たのは徳島大学の団体でした。大学同窓会で、グループ参加しているようにも見受けられました。わが神戸外大にも、私が吉沢さんと出会ったように、探れば多くのランナーがいます。2008年のときは演劇部の後輩の那須君が夫婦で完走しました。東京マラソンには出走しなかったけれど、私に刺激を受けて走り出した同級生の石川君が今年は憧れのサブ4達成、そして100キロウルトラマラソンを完走しました。
 一昨年の関東楠ヶ丘の集まりでは、同じテーブルの方で、駐在先のニューヨークでフルマラソンの経験があるという人もいました。マラソンは個人競技です。また、私も普段はどこの団体にも属さないで1人で気ままに走っているだけです。シューズさえあればどこでもいつでも自由に気ままに楽しめるのがランニングの醍醐味です。だからこそ、そういう仲間がいたら、ランニング談義に花が咲き、仲間であることを強く意識します。走る喜びは実際走るヒトにだけわかる特権のようなものを感じるからです。

 外大の卒業生の皆さん、年齢を問わず、手軽に楽しめるランニング、始めてみませんか。都内にはさまざまなランニングスポットがあります。そしてたとえば、東京マラソン、青梅マラソン、関西では福知山マラソン、篠山マラソンなど、出走の機会がありましたら母校の名の下、大会を通じて集いませんか。

 我が家は今、子育てと親の介護が同時で、逆単身赴任の生活パターンを選択しました。30年ぶりのふるさとは、よく知っている土地ですが、私は今回の転居で、仕事やさまざまな活動、大学卒業後に積み重ねたものを全部リセットして、1から始めるようなものです。

                                  


 私は今、大阪北摂の能勢の里山で暮らし、さまざまな挑戦を始めました。農業もそのひとつ。スローライフ、という言葉をよく聞きますが、誰が言ったのか、決してスローではありません。自然は人間にどんな理由や都合があっても、確実に暮らしに迫ってきますし、待ってはくれません。
 これまでの半生を総括すると、10歳まではゆりかごの中、30歳までの20年は青春時代で、自分のやりたいことをひたすらやりたいようにやった時期、その後の20年は闘病と子育ての時期。自分の能力や努力だけでは何とかならない現実にも遭遇した時期です。
 今後の何年かは年老いた親に寄り添い、私たちの世代が、次の世代に残し、つなげるものをはぐくむ時間、そういう時期にさしかかったと思っています。

 東京はいろいろなものを消費する生活です。私はこの生活からいったん離れ、消費と等分のものを生産する、そしてそれを継承する。これが今後のテーマになる生活を選択しました。その中で、ランニングから体得したさまざまなことや楽しみ、これが私の元気の源になってくれることは間違いありません。
 外大OGにはとても優秀で能力のある素敵な女性がたくさんいらっしゃいます。ウイメンズを立ち上げそれを再認識しましたが、女性の人生は、職業や、キャリアだけでははかり知ることの出来ないさまざまなことがあります。その道のりをまっすぐに元気に歩いていっている外大OGはたくさんいます。今日お話したことはごくプライベートなものですが、まだ、お若い後輩の皆さんが勇気を持って人生を歩んでいかれる参考になればと思います。

 ご静聴ありがとうございました。

                                       


 ここで、大先輩であり、仲間である吉沢佳子さんから一言メッセージをいただいていますので代読します。今日吉沢さんは1年前からの約束があり欠席です。

 外大同窓生のみなさま、こんにちは。ずっと出席してきたこの同窓会に、今年は欠席となってしまいとても残念です。
 久慈さんがご紹介くださったように、マラソンを始めてちょうど10年になります。走ったフルマラソンは30回。目の前に開けた走る世界は、私の60代をすっかり変えました。
「体力」があるって何とステキなことだったでしょう。何でもできるし、どこにでも行けます。疲れないし、身体が安定していると気持ちも平らかで、張り切って暮らすことができます。

 さて、久慈さんは若い皆さんへコメントされていますので、私はこの機会に50代から上のみなさんをそそのかしたい気がします。
「走るなんてとんでもない」と思わずに(実は私も最初はそう思いましたが)、ゆっくり走りだしてみませんか。
 歩くのと違って、走る動作は、一瞬とはいえ身体が宙に浮きます。ここにランニングのファンタジーがあるんです。50代からの人生を、面白く楽しくする「術」がここに潜んでいます。
 ランニングはとても瞑想的なスポーツで、その点も中高年のメンタリティに合っている気がします。そして、無理をせずに続けていれば、いつのまにか、「体力」という打ち出の小づちが身に備わる…。これをぜひ体感してほしいと思います。

 ほら、走らない人生って、何かもったいない気がしてきたでしょう? ランニングで人生を楽しく、深く、面白くしませんか。

 聴いてくださってありがとうございました。




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