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          NO.11



第4回交流会の報告はこちら



第11 回の寄稿は、鈴木千秋さん(学23EB)です。



垣根を越えることの価値


転機その1:同窓会名簿と再就職 

 私と同窓会の関わりは、確か1990年のことだと覚えております。
 ある日、当時楠ヶ丘会関東支部長の労をとられていた中田章さんという方から一本の電話がありました。私は中田さんとは面識がありませんでしたが、同窓会名簿をたよりにお電話くださったのです。

 会社の所在地に近いので、中田さんの仕事を手伝うのはいかがかというお誘いでした。同窓会の案内は毎年もらっていましたが、子供も小さいし、在京の友人もなく、興味もさほどなかったので同窓会に出席したことはありませんでした。
 当時夫の転勤で私のフルタイムの仕事は中断していました。仕事といえば自宅で自分の子どもや近所の子どもに英語を教えたり近隣幼稚園にパートタイムで勤めたりしていました。

 中田さんは、当時、某精密機器メーカーで輸出部マネージャーをされていました。私は大学卒業後貿易業の実務経験があったので、中田さんの会社に再就職することにしたのです。



 1990年代、海外企業との商談は、技術革新による通信・コミュニケーション環境が目まぐるしく変化した時代です。私が卒業後就職した会社の通信手段は電話・テレックスが中心でしたが、再就職した頃はファクシミリ(今はFAXという!)、また95年頃からは通信のデジタル化へと移行し、コンピューターメール・ファイル通信へと変化しました。

 1996年より業界の見本市/展示会に出展するため中田さんのお伴をしてドイツへ何度も出張し、世界各国の取引会社のトップや担当者とのフェイス・トゥ・フェイスのミーティング経験は、一気に世界が立体的に広がる印象を与えたものです。



転機その2:デジタル化産業構造と職場環境の変化

 通信手段の変化に見られるように、技術革新によってデジタル化・コンピュータ化は日本の産業構造と、そして私の仕事環境を大きく変化させました。
 勤務していたメーカーも長年アナログ機器を輸出していましたが、デジタル化の波を受け、業績も下降してきました。都心の営業所を閉鎖し、販売部門も工場に集約されました。同時に従業員も削減してリストラの嵐ふきまくる時期がやってきました。
 この経験は私にとってなかなかのもので、長く勤務された同僚、仲のよかった同僚が職場を去り、精神的にはかなりきついものがありました。一番の試練は仕事へのモティベーションの低下でした。



 2004年、正社員から契約社員への変更を迫られた時は、仕事は続けたい一方で、労働条件と待遇の低下による仕事意欲の低下がストレスとなりました。今にしてみれば会社としても避けられない処遇だったのでしょうが、これをどうしたものかと、サラリーマンユニオンに相談に行きました。そこで「あなたの場合、良くも悪くも会社と心中してくれと言われたようなものだ」との言葉を聞いてはじめて、自分の置かれた状況を客観的にとらえることができました。



転機その3:辞める?辞めない? そして第3の選択

 さて、このような客観的状況把握の中で、自己評価はなかなか上を向きませんでした。中田さんは私には理想的な上司でした。敬服するビジネスマン・スピリットの持ち主であられました。仕事が好きでやりがいもありましたが、会社と心中なんてとんでもない。このままの自分ではまずいと考えながら勤務していました。が、ある日小さな新聞記事が目にとまりました。

 それは社会人大学院でした。立教大学に、非営利組織(NPO)・危機管理・ネットワークをテーマに働きながら学べる研究課程があるのでした。それを読んで、短時間勤務になったので夜の講義に出られるし、これからは私も仕事ばかりの人生ではないし、と思いきって受験しました。
 思えば、私が大切にしている、「地域が動き出すとき」−まちづくり5つの原点−(農文協1990)という小さな本が私の関心のはじまりでしたし、この本の中で、私の郷里の隣町での、水郷の水質浄化市民活動の記録に共感を覚えていました。これが入学のきっかけということになります。

 2005年4月から32年ぶりの学生生活は予想以上に厳しいものがありました。夕方5時前に会社を出て6時30分の授業になんとかセーフ。90分講義2コマが終わると9時40分。ゼミの日は11時をぐっとまわってやっと教授室を出ます。
 また、思考力、記憶力の低下はいちじるしく、聞いたことは右の耳から左の耳へとぬけてしまい、そこで出た専門用語はなんだったのか、次の日には覚えがない。



 学生の年齢層は多世代にまたがっていましたが、幸い、クラスで同世代の友人に恵まれ、「いい、私たちの知的能力は若い人たちにははるかに及ばないのよ! 学んだことはその日のうちにメモして覚えるのよ!」と励まされつつなんとか1年目の単位を取得しました。

 この年にして社会学系の学問の入り口に立つと、現在の社会状況、そして格差や労働と雇用環境の厳しさ、学界の中のワーキングプアの問題など、知らなかったことがあまりにも多いのでした。
 読むべき本、学ぶべき哲学、立つべき自分の場所等々、課題が山ほどありました。

 2年目に際し、会社を去る決心をしました。残り1年の課程で論文を仕上げるためには、私のテーマ(子育て支援組織論)のフィールドワーク、具体的にはアンケート調査、インタビューなど昼間の時間をとられる作業が多く、仕事との両立は無理でした。
 しかし、この選択をしたことで、私は自分の自己評価を取り戻すことになりました。人にどう評価され、どういう待遇を受けるかということから全く自由になって、自分の興味や関心の中に自分の課題をみつけ、その解決に努力を惜しまない。また、楽しみながら自分の能力に挑戦し、そしてある日振り返ると、自分がもっていた小さな垣根、他人や状況に対してもっていた垣根を越えることができたように思いました。



転機その4:結論そしてウィメンズくらぶ

 2年間ではとても時間が足りなかったのですが、大学院は無事修士課程を修了することができました。刺激的な研究経験を経て、自分のライフサイクルをデザインすることが見えてきました。更に、そのことを通して、働き方をデザインすること、自分の暮らす地域や自然と調和する生き方、暮らし方をデザインすること、がこれからの課題です。

 在学中に新しい職場がみつかり、結果的には仕事も、自分の個人的テーマも両方実現できたことになります。これは、自分の力ではないな〜。私の人生のいろんな時、いい時そしていいと思えない時にも、チャンスがあり、チャンスをくれた人がいて、上司、先生、友達、同僚がいて、そしてそれらは、私がある境界線を越えることを後押ししてくれている。
 今までに出会ったたくさんの方々、仕事で出会った海外の友人を含む多様な交流を何よりも私の宝物と思いつつ過ごすこの頃です。



 関東支部ウィメンズくらぶで出会った方々も、その大事な出会いの中のひとつです。同窓会の準備にあまりお手伝いもしない発起人のひとりではありますが、同窓の方々お一人お一人に”すごいなー”、と啓発されるのです。人との出会いは、ほんとうにエネルギーをもらうものだと実感しています。
 



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