お邪魔しま〜す! 第5回


  第5回は現代ロシア文学翻訳家の織田(旧姓:市来)桂子さん(学25P)です。織田さんは1976年に外大卒業後、
 家事手伝いを経て、24歳で結婚。専業主婦として2人の男の子を授かります。普通の女性ならこの段階で家庭に
 入ってしまうところですが、織田さんは違います。次男が中学に上がるのを機に、ロシア語学習を再開。
  長野オリンピックの通訳などを経て、2000年には至難とされるガイド(通訳案内業)の国家試験に合格。ロシア語の
 ガイドとしての道を歩まれます。更に、ロシア語の翻訳へと進み、2011年には現代ロシアの女性作家の小説2冊を
 翻訳出版、翻訳家としてデビューされました。

  今回のインタビューでは、織田さんのロシア語への情熱、社会進出への動機などを中心にお話を伺いました。



              


  最初に訪ねたのは、横浜、桜木町にある「市民活動センター」。ここで、織田さんは定期的にロシア人の先生に
 レッスンを受けています。今日の先生はガンナさん。他にもう1人先生が居て、絶えずロシア語のブラッシュ・
 アップを心がけておられます。
  教室に入ると、いきなりガンナ先生にロシア語で話しかけられました。私もロシア語の卒業生だと、織田さんが
 事前にガンナ先生に予備知識を吹き込んでおられたのです。私のロシア語はすっかり錆付いているのですが、
 錆を落としながら、シドロモドロで何とか会話をつなぎました。すると、今度は、織田さんまでもが、ロシア語で話し
 かけるのです。織田さんはその場の雰囲気に合わされただけなのでしょうが、私にはイジメ! 背中は汗ビッショリ
 でした。

  教室が終わって、先生と別れ、漸く、近くの喫茶店で織田さんと日本語で話すことができました(ホッ!)。



 ー 今日はたくさん伺いたいことがあります。宜しくお願いします。

 織田: 私なんかがお話してよろしいのでしょうか。他にもっと適当な方がたくさんいらっしゃるのではないかと
     思うのですが…。


 ー 最初に御出身はどちら?

 織田: 丹波の篠山です。田舎育ちです。高校は鳳鳴高校です。外大に入学して初めて定期券というものを持ち
     ました。とても嬉しかったのを覚えています。


 ー どうして、外大のロシア語へ?

 織田: 英語が好きでした。でも英語の他に何か学びたかった。昔見た映画でロシア語の素晴らしい響きが印象に
     残っていました。それと、父が戦後シベリアに抑留されていました。相当な苦労があったと思うのですが、それ
     には触れず、「村の人たちは素朴で親切だった」としか話しませんでした。そのことも多少影響したかもしれ
     ません。
     神戸外大を選んだのは、芦屋に祖父母が居て、手伝い方々、そこに置いてもらうことになっていたからです。

     祖父は私が大学2年のとき亡くなりました。その後は祖母と2人暮らしでした。

 ー なるほど。大学時代は部活などは?

 織田: 高校時代はバスケット部に入っていました。でも外大では特に部活はしていません。

 ー 語劇祭に出られたとか?

 織田: そうなんです。最初はとても無理だろうと辞退していたのですが、ロシア語が上達するからとおだてられて、
     出る決心をしました。長い台詞を覚えるのは大変でしたが、皆でひとつのドラマを創り上げていくのはとても
     楽しかった。達成感がありました。これが青春だと思いました。


 ー すると、語劇祭に出たことでロシア語に対する情熱が湧いてきたということですか?

 織田: 大いにあると思います。その後のロシア語学習のバネになったことは事実です。

                         


 − 大学を卒業して、お勤めされたのですか?

 織田: 大学を卒業する頃、祖母の具合があまり良くなくて就職せずに家にいることにしたのです。しかし、色々と
     事情も変わり、24歳のとき、縁あって、世間を知らないまま結婚しました。

     男の子が2人できて、それなりに家庭の主婦をやってきたのですが、主婦の仕事ってとても大切だと思いました。
     家庭を守っていくのはすごく価値のある仕事だと分かったのです。


 ー そうすると、その間はロシア語は忘れてもよかった?

 織田: いいえ、ロシア語への愛着はずっとありました。だけど、学習に割く時間がない。そこで、夫が購読している
     技術雑誌で翻訳者を募集していたのを見つけ、夫の名前で応募しました。
     仕事は、ロシア語で書かれた文献のアブストラクト(要約)部分を日本語に翻訳することでした。
     夫と相談しながら翻訳し、雑誌社に送るのです。その仕事を何件かやりました。雑誌社からは謝礼が出ました。
     私の翻訳で初めてお金を頂いたのです。嬉しかった。

 ー ロシア語の本格的な復活はいつ頃から?

 織田: 次男が中学に上がり、手が離れたとき、ユーラシア協会の会話クラスに入りました。タチヤーナさんという女の
     先生でした。とてもいい方で、この方にはその後も随分お世話になりました。勉強する時間が増えてきた頃、
     1998年の長野オリンピックがあり、通訳のボランティアに応募して初めて通訳を体験しました。そのうちに欲が
     出てきて、ガイドの試験にも挑戦したのです。


 ー とても難しい試験ですね。語学だけでなく、一般常識や観光案内に関する知識も要求される。

 織田: そうです。最初はダメでした。でも、2000年に合格したのです。もの凄く嬉しかった。
     ガイドのお仕事ができるというより、自分の力が国家試験で認められたことに感激
     でした。21世紀の訪れとともに何かいいことがありそう…。


 ー 21世紀は私の世紀だ、というわけですね。でも、その後ベルギーに行かれますよね。

 織田: はい、2005年に夫がブリュッセルに駐在が決まり、夫の赴任に私も帯同しました。

 ー あそこはフランス語圏でしたね。

 織田: フランス語と北部はフラミッシュと呼ばれるオランダ語の方言なのですが、現地では、メインは
     フランス語でした。フランス語の勉強に必死でした。発音がとても難しいです。文法も難しいのですが、
     勉強する上でそれほど抵抗はありませんでした。名詞の性や動詞の人称変化などがありますが、
     それよりはずっと複雑なロシア語を経験していますから。

 ー でも、フランス語は生活に必要だったわけですよね。とてもロシア語の勉強どころじゃありませんね。

 織田: いいえ、ロシア語への愛着はそんなに簡単には消えません。2年間の駐在でしたが、その間に現代ロシアの
     小説を1冊、自分なりに翻訳しました。それが、後に出版することになる「男はみんなろくでなし?」なんです。

 ー えっ、ベルギーでロシア小説の翻訳ですか? 判らないところを訊く先生も誰も居ないですよね。

 織田: 先ほどお話したタチヤーナ先生がモスクワに帰国しておられたのです。それで、先生に連絡しておいて、夫の
     休暇中に一緒にモスクワまで出かけたのです。私は翻訳上の疑問点をすべてノートにまとめて、滞在中の
     ホテルまで先生に来ていただきました。先生に相談すると、殆ど問題は解決しました。

                                

 ー そうですか。凄い行動力ですね。でも、それだけでは出版にまで漕ぎつけられないでしょう。

 織田: もちろんです。その時は出版することなど考えてはいなかったのです。でも、本になればいいなぁ、という夢は
     ありました。

 ー それが、どういう経緯で本になったのですか?

 織田: 日本に帰国してから、ガイドの仕事を始めました。ガイドには色々な知識が要求されます。それに、ロシアの
     習慣やロシア人の興味や趣向までも知っておく必要があります。それで、ガイドの仕事に役に立つようにと、
     水野さんという方と2人でネイティブの先生に教わることにしました。その先生が先ほどお会いになったガンナ
     先生です。
     ある時、ガンナ先生が現代ロシアの人気作家、ガリーナ・アルテミエヴァ女史の短編集からいくつかをコピー
     して持ってこられ、「これを2人で翻訳してみたら?」と仰ったのです。その中の1つが「ピクニック」でした。
     水野さんと手分けして翻訳に取りかかりました。スラングや分からないところはガンナ先生が助けて下さいました。
     紆余曲折がありましたが、その翻訳の出版を未知谷(ミチタニ)という出版社で取り上げてもらえることになりました。
     その時、「実は、もう1冊あるのですが…」と、ベルギーで翻訳したものを恐る恐る差し出したのです。

 ー それで、未知谷さんはOKしてくれたのですか?

 織田: とりあえず一度読ませて下さいと言われました。その後、お返事があって、面白いが長すぎる。30%ほど削って
     短くしてほしいと言われました。未知谷さんは、著者のエカテリーナ・ビリモント女史からの版権の取得も原作を
     削ることの了解も未知谷さんで引き受けるとも仰ってくれました。私は、折角苦労して訳したお気に入りの箇所を
     バッサリ削ってしまうことには抵抗があったのですが、出版社がそう言われるのですから仕方ありません。涙を
     呑んで削除する仕事を急ぎました。そして、色々な方の御協力もあって、2011年に2冊の翻訳本が出版された
     のです。水野さんとの共訳の「ピクニック」と私の翻訳した「男はみんなろくでなし?」です。

                      


 
ー 両方とも読ませていただきました。面白かった。特に、「ろくでなし」の方は、ロシアの小説とは思えない、軽いタッチで
   書かれています。アラフォーの女性が主人公ですが、彼女はバツ3で3度の離婚歴がある。今まで自分の人生には、
   幸運な時期とダメな時期が繰り返されてきた。ダメな時期に出会う男はどれもろくでなし。でも最後に出逢った男は
   違う。彼女はゾッコン惚れこんで、彼だけは例外だと信じるわけですね。ところが…。例外かどうかでひと悶着ある。
   ロシア語のタイトルでは『幸運期それとも男はどれもろくでなし』となっていますね。最終的に日本語版を今の題名に
   されたのには何か背景があるのですか?


 織田: この本が出版されたタイミングは、丁度、東日本大震災の時期と重なったのです。日本中が悲しんでいるのに
     あまりふざけたタイトルはつけたくなかった。でも、出版社は「男はみんなろくでなし」で行こうと仰るのです。私は
     気が進まなかったのですが、最後に「?」をつけることで妥協しました。だから、最後の「?」は私の抵抗の産物
     なのです。その辺りの経緯は「訳者あとがき」に書いてあります。

 
ー そういうことですか。「訳者あとがき」も最後が面白かった。こんなタイトルの本を出版することに御主人が反対する
   だろうと思ったら、すんなり賛同してくれた。そこで、書いておられますね。「主人は例外です(と信じます)。」
   思わず笑っちゃいました。つまり、「男はみんなろくでなしだけど、例外もある。私の主人を見てください!」と主張
   されているような気がしました。


 織田: そこまで主張する積もりはありませんが…(笑い)。


 
〔インタビュー後記〕

  織田さんに紹介される前、ウィメンズくらぶの藤岡さんや透明水彩画の若葉さんに織田さんのことを聞いていた。
 お2人は同じ言葉を口にした。「とても上品で遠慮深い方です」。お会いしてみて確かに同じ印象を受けた。でも、
 外観はそうでも、内面にはとても強いものをお持ちだと思う。最初に漠然とした「夢」があり、次にその夢を「実現」
 するステップに踏み込んで行かれる。決して急がず、着実に。そして好機を捉える上で彼女なりの強引さも持ち
 併せておられる。今回の「ろくでなし?」の上梓にはその強引さが功を奏した。
  不肖、私もロシア学科の出身だが、先輩の立場からみると織田さんは実に心強い後輩だ。ロシア文学の古典は
 有名だが、現代文学は殆ど知られていない。織田さんには今後ますます活躍してもらいたい。焦らず、着実に…。

                                          (2013年9月12日取材)

 尚、織田さんの2つの訳書の詳細については、下記を参照願います。
 「ろくでなし?」は→ こちら
 「ピクニック」は→ こちら


   バックナンバーは下記の氏名をクリックして御覧下さい。

 第1回 文藝春秋社長/平尾隆弘氏(学19E)  2012年3月取材

 第2回 陶芸家/濱村(旧姓 木戸)祐子氏(学31E) 2012年10月取材
 第3回 レアメタルのトレーダー/西野元樹さん(学46P) 2013年4月取材
 第4回 透明水彩画家/若葉恵子さん(学30C) 2013年6月取材




                                
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