第10回はイスパニア学科から初登場、セルバンテスの『ドン・キホーテ』
全編を非常にユニークな語り言葉で完訳された、荻内勝之さん(修H1)です。

 荻内さんは、1966年に学部イスパニア学科(H1)を卒業され、すぐにスペインに
留学。バルセロナ大学・文学部で研鑽を積まれた後、再び神戸外大に戻られ
大学院修士課程に進まれました。1970年に修士を卒業、東京経済大学の
専任講師となられます。助教授を経て、1989年、同大教授に就任されました。
昨年、同大学を退職され、現在はイスパニカ(→ こちら)でスペイン語を教えて
おられます。

 とてもお忙しい方で、アポイントを取るのに苦労しましたが、11月4日(水)、
イスパニカからの帰路、夕刻に溜池山王の喫茶店「シーザー」でお会いして、
1時間余りインタビューする機会を得ました。
 インタビューが終わると直ちに次のアポイント先、福音館に新作の打合せに
向かわれました。また、翌5日は仕事でマドリードに発たれるというビジーな
スケジュールです。

 インタビューを効率よく進めるため、事前に御著書を何冊か読ませていただき、
(多分に走り読みでしたが)その情報をもとに質問をし、答えていただきました。
予備知識なしにお会いしたなら、恐らく丸1日かけても足りなかったでしょう。
それほど、中身の濃い人生を送っておられる方です。


ー お邪魔しま〜す。お忙しいところ、時間を割いていただいて有難うございます荻内さんは1943年、ハルピン生まれですね。
「おっ父ったんが行く」を読ませていただきましたが、波乱万丈の少年時代ですね。特に、「おっ父ったん」には随分厳しく育てられ
ましたね。

荻内: というか、荒っぽかったですね。戦後ハルピンから引き揚げてきたのですが、親は苦労の連続でした。私たちは両親と兄妹が4人。
6人が姫路の近くに辿りついて、住むところがありません。一家6人が寝る場所もない。近くの縄を作る小屋を借りて生活を始めました。

 六畳一間で、畳もありませんでした。そこに、6人が重なり合うように寝ていましたね。父も一家を食わせるのに、いろんな仕事をやりました。
芝居興行、飴屋、大工、テキヤ、パチンコ屋…。子どもからみると、ええ加減なオヤジでした。自分のことは棚に上げて、母や私たち子ども
には厳しかったです。言うことと為すことがマダラなんです。私もそれを受け継いでいますが…。

 ろくに小学校も出ていないのに、戦後初の民主選挙に出て、村会議員から市会議員にまでなりました。借金取りや税務署の差し押さえが
あり、私はすぐに大人になりました。父は話がうまくて、それで危機を切り抜けていました。泣かせるんです。

ー あの本を読みながら、「男はつらいよ」の寅さんが家庭を持てば、こんな「お父ったん」になるんじゃないだろうかと想像しました。
でも、最終章の「お父ったん」の臨終の場面を読んで、荻内さんのお父様に対する愛情をひしひしと感じました。ひょっとすると、
この本はお父様を送る「レクイエム」じゃないのかとも思いました。


荻内: そういう受けとめ方をされると嬉しいですね。いろいろと酷い折檻も受けましたが、いいオヤジだと思っていましたよ。ワシの葬式には
車の列が2〜3キロは出来る。小学校か中学校の校庭を借りろ、と言っていました。実際にそうなりました。

 母もよく出来ていて、私が店の売上金をちょろまかすと、ウチは物もよう売れるけど、カネもよう出る、と言って笑っていましたね。私が
幼稚園に通い始めて3日で逃げて帰って、あんな子供みたいなことやってられんわと言ううと、母は、そうか、行かんでもええわ、と言って、
それっきりいきませんでした。それで、家のよろず屋を手伝ったんです。これは口銭がなんぼで、あの人には安くしてあげよ、などと母から
教わりました。

ー お父さんの折檻というのも、殴る、蹴るだけでなく、逆さ吊りで水の中に沈めるといったものまでありますね。

荻内: そのお陰で、水中呼吸法を会得して、水泳は得意でした。荻内流潜水泳法ですね。オヤジの背中を借りて泳げるようになった瞬間を
忘れません。中学2年の時には全市中学水泳大会の200m平泳ぎで優勝しましたから。ゴールに入ったら、2位は50m向こうをターンして
いました。試合には、オヤジが生タマゴを2個くれて、飲んどけ、と言いました。

 ボクは当時の古川選手を目指していて、オリンピックに出るぞ、とふれ回っていました。記録がどれくらいかは関心なく、一番になりさえ
すれば良かった。

ー そうですか。オリンピックに出たいと思うようになったのは何かきっかけがあったのですか?

荻内: 小学校5年のとき、大阪で世界選手権大会があって、先生がいっぺん見とけ、と言って連れて行ってくれました。ものすごい刺激
でした。

ー 外大では水泳部に入らなかった?


荻内: 外大に入って、水泳部の練習に加わったことがあります。その時は、ブレストの記録があまり良くないなぁ、と感じました。私が
泳いだのは加古川の天然プールです。兵庫県の公認ですが、流れを横切って泳ぐので、実際には時間も少し少ない目にみるべきでしょう。


                                


ー 水泳で思い出したのですが、小学校のときに「かよちゃん」という女生徒に思いを寄せる場面がありましたね。

荻内: かよちゃんは初恋の人でした。小学校5年のときに学芸会のチャンバラ劇に共演しましてね。私とかよちゃんは兄・妹の役でした。
先生が、かよちゃんを抱く場面があるけど、それでもええか、と尋ねたので、やる、と言ったら、やりなさいと返って来たのを覚えています。


ー そのかよちゃんとは中学3年のときに天然プールで再開されましたね。

荻内: 彼女は引っ越して、遠いよその中学に行ってしまったのですが、わざわざ私の練習を見に来てくれたようなのです。そのとき私は
夕方の天然プールで一人で練習していたのです。かよちゃんは私の脱いだ服のそばに居たのです。私は雪印アイスクリームの旗を
フンドシにしていたので、恥ずかしくて陸に上がれませんでした。それで、更にもう500〜600mほど泳いで暗くなるのを待っていたのですが、
潜っている間にかよちゃんは消えていました。

ー お芝居といえば、荻内さんの一家は歌舞伎関係の方が多いですね。役者の方も。荻内さんも5歳のときに歌舞伎の初舞台を
経験されたとか。役者願望はなかった?

荻内: 父と一緒に「トーザイ・トーザイ」とやりました。役者願望はありましたね。だけど、歌舞伎には不可欠な踊りが嫌いで逃げました。
父は私を映画俳優にしたくて、オーディションに行きました。小学5年でした。義太夫は今もやっています。口三味線ですが。

ー 少年時代はとんでもない腕白少年で、叔父さんが将来を案じていますね。「あの子はたいそうえらい者になるか、ひとつ間違ごうたら
どえらい極道になりよる」と。だけど、間違わなかったということですね。


荻内: フスマの向こうで言うのを聞いたのです。好きな叔父で、警察官でした。私を留置場に入れて手錠をかけ、こういうことになるぞ、と。
間違わなかったというか、少なくとも「どえらい極道」にはならなかったですね(笑)。

ー 少年時代はそのくらいにして、高校は姫路東高校ですか?

荻内: いや、加古川東です。中学の終わりごろから色々と病気をしまして、一時は高校進学を諦めていたのですが…。

ー どんな病気ですか?

荻内: 盲腸に始まり、脱腸、静脈瘤、肋膜炎、肋間神経痛、赤痢など、いろいろです。特に、深刻だったのは拒食症ですね。拒食症と
いっても私の場合は過食症が原因なのです。食べられる時には思い切り食べた。お腹が一杯になると、食べたものを吐いて、また食べた。
西瓜なら2つはペロリと食べて、それを吐く。中学2年の春から3カ月で13キロやせました。それで、姫路の日赤病院に2カ月くらい
入院しました。

ー そんなこともあるのですか。

荻内: 高校に入った頃もゲキヤセで、身体が萎んでしまった。以前の逞しい身体が忘れられなくて、少しでも大きく見せるために、夏でも
ラクダのシャツを2枚も着込んでいました。肩パット族のはしりですよ。母は、おまえは変態や、と言っていました。


ー それは暑いでしょう。

荻内: すぐに汗ビッショリでした。で、トイレの中で上半身裸になって汗を拭いたり、挙句の果てはラクダのシャツにハサミでたくさん
穴を開けて、風通しをよくしたり…。


ー なるほど。苦労されましたね。で、どうして治療されたのですか。

荻内: 多分に精神的なもので、ひとつのことに熱中すると、また食べるようになりました。

ー それは?

荻内: 英語の勉強ですね。当時、神戸の港には外国船がしょっちゅう入港していました。高校2年の春、神戸港で外国船に見学乗船する
ことを覚えました。朝の9時に入港、夜9時に出港。その間ずっと船に居て、いろんな外国人と英語で喋る。2週に1度は高校を休んで通い
ました。先生には、下痢ですと言ってね。


ー それはよく分かります。私も外大時代には神戸港でソ連の貨物船に乗せてもらって生のロシア語を勉強したものです。で、どなたか
親しいお友だちでもできた?

荻内: そうなんです。私の場合、客船が主だったのですが、アメリカの船でサンフランシスコとマニラを繋ぐ航路の客船に乗る機会が
多かった。そのうちに、21歳のフィリピン女性とお友だちになって、もっぱら彼女のオッカケをやりました。横須賀の軍港まで会いに行って、
浜辺に揚げてある船の中に5日間いました。蚊に食われて難儀しました。英語で小説を書いて彼女にプレゼントしました。


ー 青春を感じさせる話ですね。その辺りから外国語大学進学に繋がるのでしょうね。で、スペイン語はどうして?

荻内: 彼女と話をすればするほど、フィリピンについてもっと知りたいと思うようになりました。そのことを話すと、彼女は「フィリピンの
勉強をするにはスペイン語を習得しなければならないといって、スペイン語の本をくれました。


ー なるほど。それで受験勉強に励まれたわけですね。

荻内: 受験を意識したことはほとんどありません。英語で本が読めて、新聞が読めて、ラジオを聴けた。でも、数学が大の苦手でしてね。
数学ができなくても、英語ができれば入れてくれそうなところ、というわけで、外国語大学を目標にしました。大阪外大は国立だけに
足切り点があって無理。遠くの大学は生活費が大変。そのとき、神戸外大にスペイン語学科が新設されると知って、ここ1本に絞りました。
数学は0点でした。全く手をつけなかったからです。合格するとは思っていなくて、2月、3月と神戸港で外国船の荷積みのアルバイトをして
いました。浪人資金にする積りで…。

ー でも、イスパニア学科の1期生として入学されたわけですね。で、入学してみてどうでした。お住まいはどうされたのですか?

荻野: 学寮というか、六甲教会付属の寮に入りました。カトリック教会が世界に展開しているシステムです。スペイン語の勉強は楽しかった。
偶々、キューバのカストロ首相の演説を録音したテープを手に入れました。キューバ危機で海上封鎖されたとき、アメリカを非難する演説です。
父に買ってもらった大型の録音機があったので、そのテープを何度も聴いて文字に起こしました。

 録音ということでは、もうひとつ印象深いのは語劇祭ですね。1年の春、スペイン語を習い始めた初日、元スペイン共和国の公使だった
ホセ・ルイス・アルパレス先生が古典劇の録音をくれて、それを丸暗記しました。テープの裏面に日本語訳を吹きこんで、内容をつかむ。
そして、対訳的に頭に入れていくのです。訳本は貸せないと言われて読みあげて録音しました。

 12月にその劇を私が演出して、海員会館で上演。イスパニア学科総勢29人の大冒険でした。英米学科の女性3人をスカウトして賛助出演
してもらいました。それが、『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテスの短編劇でした。セルバンテスとの出逢いが習い始めの初日だったわけです。



                               JP.Sputniknews,com



 大学では、主に林先生、鼓直先生、アルパレス先生、とくに高橋正武先生の指導を受けました。元は東京外大の教授で、南山大学にスペイン語
学科を創られた方です。スペイン語の辞書を編纂されたり、『ドン・キホーテ』の翻訳を完成させたり。高橋先生が神戸外大のイスパニア学科を
創られたようなものです。

 1年目の最初の授業で、諸君はこれからの日本におけるスペイン世界の研究を担う人になります、と言われた。私のことを言っていると思い
ました。

ー ドン・キホーテは一般には奇人、変人と受け止められていますが、実は素晴らしい人物だとドストエフスキーが書いていますね。
私も最近知ったのですが、ドストエフスキーの『白痴』の主人公ムイシュキン公爵は、イエス・キリストとドン・キホーテをモデルにした
とされています。

 ドストエフスキーは姪に宛てた手紙に、《この長編は無条件に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことは、この世にあり
ません。この世にただひとり無条件に美しい人物がおります―それはキリストです。したがって、この無限に美しい人物の出現は、
もういうまでもなく、永遠の奇蹟なのです。…キリスト教文学に現れた美しい人びとのなかで、最も完成されたものはドン・キホーテ
です》と。荻内さんもドン・キホーテが美しい人だと思われますか?

荻内: 高潔ということですかね。さまざまに読める本です。書かれた時代、読者は腹を抱えて笑いました。太平洋戦争でビルマに動員された
長南実先生は、野戦病院で、ボロボロ涙を流して読んだそうです。作者は、塞いでいる人の気が晴れて笑い、笑う人がもっと笑い、馬鹿が
腹を立てないように書くことに務めました。語呂も大きな役目を果たしています。ドン・キホーテは言葉の達人です。それで人を感動させます。
行動は人を呆気にとらせる。

ー 学部で4年間学ばれた後、スペインに留学されましたね。

荻内: はい。バルセロナ大学の文学部イスパニア研究科です。70人もの見送りを受けて神戸港を発ちました。初めは働くつもりでしたから
コック見習いもやりました。魚の調理がおもでした。コック長に可愛がられて料理人になることも本気で考えていました。

ー その辺のことは、御著書の『ドン・キホーテの食卓』に詳しいですね。あの本を読むと、ほんとに色々な経験をされています。素人劇団の
ドン・キホーテ劇に参加されたり、ドン・キホーテの研究家を追っかけたり…。

 あの本の中にも出てきましたね。『ドン・キホーテは何を食べて狂ったか』という本の作者を捜しにムネラまで出かける。

荻内: ラジオで誰かがドン・キホーテの食生活を語っていたので、急いで録音し、文字に起こして語り手を捜しました。地方の新聞記者でした。
訪ねようと電話をした時には、既に亡くなっていて、息子さんに会いました。

ー で、ドン・キホーテが何を食べて狂ったのか、分かりましたか?

荻内: 狂ってはいなかったことが分かったので、食べて狂ったは筋が通らない、というのが結論です。

ー スペイン留学から帰られて、今度は神戸外大の出来たばかりの修士課程に入られるわけですね。

荻内: そうです。そこで高橋先生と再会します。

ー それでは、修士を卒業されてからのことを伺います。東京経済大学には直ぐに採用されたのですか?

荻内: 先生の世話でほかに、名古屋の大学からも声がかかりましたが、東京に2〜3年住んでみたいと、東京を選びました。大学院に居る
時から、関学(関西学院大)の非常勤講師をしていました。当時は大学教員が学部卒で採用される最後くらいの時期でした。

ー 1970年のことですよね。その後、助教授を経て1989年に教授になられましたね。今年退職されて、45年間務められたわけですね。

荻内: いや、退職は去年でしたので44年間ですかね。

ー スペイン研究に45年。その間にたくさんの本を出されましたね。作者の眼からみて、ベスト3を挙げるとどうなりますか?

荻内: 翻訳ものを別にすれば、次の3冊でしょうか。
     ・『スペイン・ラプソディー』(主婦の友社、1989)
     ・『ドン・キホーテの食卓』(新潮選書、1987)
     ・『コロンブスの夢』(新潮社、1991)


ー それに、何といっても。2005年に出された『ドン・キホーテ』の完訳は大仕事でしたね。あの本は、独特の語り口調で翻訳されているので
読みやすいとの評判ですね。

     
      



荻内: 原文に忠実に訳しました。日本語への翻訳は、一語一語にとらわれて、逐語への拘りが必要を超えることが多く、強迫観念に憑かれた
ような文章になることが少なくありません。日本語文学を英語やスペイン語に訳したのをみると、その辺がリラックスしている。

 役者の仲代達矢さんが、私の訳で舞台の『ドン・キホーテ』をやったとき、小説なのに芝居の脚本になったいますね、と言いました。
スペイン人がこの作品を読んだ時と同じ印象で、嬉しかったです。語り口調なので、放送大学「世界文学」にて講談師、宝井一凛の語りで
朗読サンプルとして取り上げられました。


ー 今はイスパニカで教鞭をとっておられる。何を教えておられるのですか?

荻内:読書会ですよ。 『ドン・キホーテ』を原文で省略せずに読んでいます。

ー 受講生は何人くらい?

荻内: 2人です。中身がこの上なく濃いです。

ー そうですか。私より3歳お若いということは、もう古希を過ぎられたわけですね。これからもお仕事は続けていかれるのですか。

荻内: このインタビューが終わった後は、福音館に行って新作の打合せをします。若者用に1,000ページほどの『ドン・キホーテ』を書くことに
しています。上梓は1年後になるでしょう。いわゆる編訳で、作家気分で書いています。次の仕事はスペインの脱獄囚の伝記です。これは、
20年前に受けた仕事なのですが…。 

ー 確かにライフ・ワークですね。今から福音館で打合せ、明日はもうマドリードに発たれるというじゃないですか。お忙しいところを本当に
ありがとうございました。


荻内: こちらこそ、有難うございます。楽しかったです。



 [インタビュー後記]

 荻内さんの御指定は駅構内の喫茶店でしたが、コマツビル地下の「シーザー」を
選びました。古ぼけた喫茶店ですが、夕方は客が少なく、ゆっくりとお話を伺うことが
できました。
 荻内さんとは全くの初対面でした。大学教授というより、わんぱく少年の面影が強く
印象に残りました。「ドン・キホーテに惚れた」と言われるように、荻内さんの中では
ドン・キホーテが理想の人物像として確立しているのかもしれませんね。
それにしても、セルバンテスの大著を独自の言葉で全訳されたバイタリティには頭が
下がります。
 イスパニア学科は管理人が4回生のときに新設されたと記憶しています。第1期生に
荻内さんのような素晴らしい卒業生を輩出したことは、母校の誇りです。
 インタビューが終わり、私の持参した「おっ父たんが行く」の裏扉にサインをお願いした
ところ、下のような添え書きを頂戴しました。
「あなたの胸にいつも1人のドン・キホーテ」



              2015年11月4日取材            管理人



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 第1回 文藝春秋社長/平尾隆弘氏(学19E)  2012年3月取材

 第2回 陶芸家/濱村(旧姓 木戸)祐子氏(学31E) 2012年10月取材
 第3回 レアメタルのトレーダー/西野元樹さん(学46P) 2013年4月取材
 第4回 透明水彩画家/若葉恵子さん(学30C) 2013年6月取材
 第5回 現代ロシア文学翻訳家/織田佳子さん(学25P) 2013年9月取材
 第6回 青山学院大学名誉教授/寺谷弘壬さん(学9P) 2014年1月・2月取材
 第7回 起業家/西尾義彦さん(学12EA) 2014年5月取材
 第8回 横笛奏者/松尾慧(大浦典子)さん(学25P) 2014年7月取材
 第9回 起業家/荻野正明さん(学14P) 2015年1月取材
 


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