第12回は本シリーズ最長老、学3ECの宮本倫好(ノリヨシ)さん(87歳)。管理人より10歳上、数え年で米寿になられました。

 宮本さんは神戸外大卒業後、産経新聞社に入社、アメリカ、イギリスに特派員として長く勤務され、その間色々と貴重な経験をされました。アメリカでは、コロンビア大学大学院にも学ばれ、修士課程を終えられました。産経新聞退社後は文教大学教授として教職の道に進まれ、理事・国際学部長、副学長を歴任、現在は同大学名誉教授。海外では、スピルハレット大学(ルーマニア)の名誉客員教授。

 学外でも幅広く活躍され、元・『日本時事英語学会会長』、現・『日本エッセイストクラブ会員』、現・『英語のジョークを楽しむ会・代表』、現・『紀伊民報コラムニスト』等々、現役として多方面のお仕事をこなしておられます。また、著書も、時事英語、政治、文化、社会関連やエッセイなど50冊ほどあります。

 管理人は、偶々手にした「英語語源辞典」という本に興味を持ち、著者が神戸外大の先輩だということを知って、直ちにインタビューを申し込んだところ、快諾を得て、今般、宮本さん御指定の日本記者クラブでお会いしました。此処は会員制クラブですが、ジャーナリストの宮本さんは会員登録されています。


                                                                                  
    


ー お邪魔しま〜す。お忙しいところ、時間を割いていただいて有難うございます。早速ですが、宮本さんのお生まれは関西ですか?

宮本: 生まれは和歌山県です。今でこそ白浜町の一部になりましたが、当時は紀伊半島の南端に近い寒村でした。兎を追い、小鮒を釣った少年時代でした。でも、家は海に近かったので海の魚を獲る方が多かった。海の子でもありますね。

ー 御兄弟は?

宮本: 3人兄弟の末っ子でした。長兄は早くから満州に渡り満鉄に勤務していました。すぐ上の兄(といっても5歳もはなれていましたが)は、私が中学1年の時、20歳の若さで亡くなりました。

ー 中学1年というと太平洋戦争の最中ですね。戦死されたのですか?

宮本: 戦死といえるのかどうか。戦地で戦って死んだというわけじゃない。長兄の居る満州に行こうとして、関釜連絡船「崑崙丸」で朝鮮に渡る途中、アメリカの潜水艦に撃沈されたのです。

ー えっ? 民間の船でも攻撃目標になるのですか?

宮本: 昼間なら攻撃はなかったかもしれない。ところが、出港が大幅に遅れて夜間の航海だったため日本軍の船と間違えたのかもしれません。

ー 夜間の撃沈なら犠牲者も多かったでしょう。

宮本: 記録では、乗客・乗員655人中583人が犠牲になったとあります。生存者の話では、灯火管制で船内は真っ暗の中、突然、船尾に魚雷を受け、船体が棒立ちになり、阿鼻叫喚の地獄絵図を描きながら間もなく沈んだとのことです。

ー 宮本さん御自身は、学徒動員にはかからなかった?

宮本: 和歌山の片田舎でしたが、近くの造船所に勤労動員されましたね。だけど、少し後で、戦況が厳しくなって、私たちの旧制中学にも予科練の志願者を増やすよう軍部から要請がありました。私は担任の教師から職員室に呼ばれ、「予科練に志願しないか。兄さんの復讐になるぞ」と勧められました。でも、その気はなかったですね。

[注] 予科練:海軍飛行予科練習生(かいぐんひこうよかれんしゅうせい)のこと。帝国海軍の航空兵養成制度のひとつ。志願制であった。

ー そうですか。ノッケから戦争の話になってしまいました。戦争を身近に体験された先輩は、このインタビューでは初めてなものですから。ここいらで話題を変えましょう。高校はどちらですか?

宮本: 田辺高校です。新制高校の第1回生です。高校では英語を猛烈に勉強しました。将来世界に出てみたいという漠然とした夢がありました。

ー それで、神戸外大を受験された。

宮本: そうです。外大には合格したのですが、身体をこわして1年休学することにしたのです。その間、郷里に帰ったところ、近所の方が中学校で英語を教えてみないか、と声をかけてくれました。何しろ、戦後直後のことで英語を少しでも話したり読めたりする人材が払底していたのでしょうね。

ー それで?

                                     


宮本: その話を受けました。19歳で中学校の教壇に立ったのです。

ー 神戸外大の方はどうされたのですか?

宮本: 今にして思えば、あそこが私の人生の岐路でしたね。中学では教えることの面白さを発見しました。また、生徒との相性も悪くないし、このまま行くか、と決心しかかった。教員の道を行くなら、通信教育で大学卒の資格をとることもできる。村の先生として穏やかな人生を送れるだろう。しかし、現実には私の野心というか、冒険好きの性格が強く頭をもたげてきました。将来、世界で羽ばたきたい。

ー そうでしたか。それで外大に復学された。

宮本: そうです。神戸外大では英語習得にのめりこみました。だから、大学生活には他の学生のように学外での楽しい想い出があまりないですね。

ー なるほど。それで新聞社に就職されたわけですか? 産経新聞を選んだのは?

宮本: 新聞記者には関心が強かったのですが、当時は就職難で、どこも壁が厚かった。そこでいくつか受けたのですが、まず試しに地元の神戸新聞を受験。何と、これがトップで合格でした。新聞社からは「ぜひ」と説得に見えられたのを記憶しています。しかし、そのセリフの中に「外大にしては秀才で」というのがありました。これには、「地方新聞がバカにするな」と腹が立って断わりました。続いて毎日新聞を受験。最後の役員面接まで行きましたが、「編集以外には希望がないか」と聞かれ、「新聞社に入るなら記者職だと決めています」と答えて決裂。 最後に兄が「面白い新聞だぞ」推薦する産経にしたのですが、これがうまく行きました。しかも産経は大阪駅前に堂々たる社屋を建設したばかりで、あたりを圧倒していました。私の見得も大いに満足したわけです。

ー なるほど、当時からなかなか強気発言ですね。産経新聞社では海外に駐在しようとすると、どういうコースをたどるのですか?

宮本: 我々の入社した後、「産経新聞・留学制度」というのが出来ました。英会話のブラッシュ・アップを兼ねて、米国、英国に若い人材を送り、生きた語学を習得させるのです。

ー それで、宮本さんも手を挙げられた。

宮本: はい。その年は、100人ほど受験し、アメリカに3人、イギリスに2人が採用されたのですが、私はアメリカ組の3人の中の1人に選ばれました。

ー いよいよ夢が実現に向かう段階に入りましたね。それは何年頃の話ですか。それと、赴任地はニューヨークですか?

宮本: 確か、1962年だったと思います。32〜33歳の時でした。2年間どこに行こうが、どこで勉強しようが自由なのです。そこで、西海岸のサン・フランシスコから始まってシカゴに飛びました。

ー どうしてシカゴなのですか?

宮本: シカゴが特別な意味を持っていたわけではないのです。まあ、行けば何とかなるだろうと。

ー それはスゴイ冒険ですね。そういう中から叩き上げのジャーナリストが誕生するのかもしれませんね。会社もそれを期待したのでしょう。それで、シカゴでどうされたのですか?

宮本: まず、宿を確保しなければいけない。ホテルなんかに泊まっていたのでは会社からのお手当は直ぐに底をつきます。そこで、外国人センターのようなところを捜しました。「Foreign Visitors' Center」といったかな、そういう施設があってそこに入り込んで色々と助けてもらいました。

ー 宿は確保できたのですか?

宮本: 出来ました。アメリカというところは、善意のボランティアがたくさん居るのです。センターでそういうボランティアの1人を紹介してもらいました。シカゴ郊外のエバンストンという町に住んでいる方で、名前をトンプソンさんといいます。その方のところでは留学生に無償で部屋を提供している。ホストファミリーですね。エバンストンには、ノースウェスタン大学もあってとても住みやすい町です。トンプソンさんはその大学の教授でした。居候に転がり込んだ私にとても良くしてくれました。後に日本に来てもらって、夫妻で我が家にも泊まっていただきました。何十分の一かのお返しができました。

ー なるほど。絶好の基地ができた。その基地を起点に徐々に行動半径を拡げて行かれたのですね。

宮本: その通りです。最初の内はノースウェスタン大学で聴講もしました。徐々に行動半径を拡げて行き、極めつけは99日間アメリカ旅行です。アメリカにはグレイハウンドという長距離バスの会社があって、そこが99日間でアメリカの主要な州を巡り歩く、格安チケットを販売していた。事前に行きたい町の外国人センターに手紙を出し、旅先での格安ユースホステルや、ホストファミリーを世話してもらうことにして、99日間の全米バスツアーに出かけました。

                                     


ー バスで3カ月の旅行ですか。すごいですね。遊牧民のキャラバンのようですね。私には想像すらできません。

宮本: 自分でもスゴイ冒険旅行だったと思います。お陰で色々な経験もしました。お礼に「日本について講演する」という触れ込みで、幼稚園から大学まで訪問して喋りましたよ。これで少なくとも度胸はついた。南部に行くと南部の訛りがなかなか聞き取れない。けれども、何とかマネージできる自信もつきました。この旅行は私には大きな財産になりました。


ー そうでしょうね。その体験談を是非お伺いしたいところですが、とてもそれだけの時間を頂戴するわけにはいきません。先を急ぎましょう。それで、その後、ニューヨーク勤務になられたのですか?

宮本: いや、ニューヨークより先にロンドンに行きました。1967年から4年間、ロンドン特派員になりました。その後、一度東京勤務があってから、1980年から5年間、ニューヨーク支局長を勤めました。

ー ロンドンにも勤務されたのですか。ロンドンでのエピソードが何かあれば紹介していただきたいです。

宮本: それじゃ、取って置きのネタをひとつ御披露しましょうか。あるとき、青天の霹靂といおうか、驚天動地といおうか、華やかなことには全く無縁だった私たち夫婦にエリザベス女王から園遊会の招待状が舞い込んだのです。

ー えっ! エリザベス女王からですか。それは、また大変なことですね。名誉なことではありますが…。失礼ですが、宮本さんはどういうお立場で招待状を貰われたのですか?

宮本: その時、偶々、ロンドンの外国人記者クラブの副会長をしていましてね。そのためだと思います。

ー 外国人記者クラブって、何人くらいいるのですか?

宮本: 人数なら500人くらいは居ますが…。副会長もチョットした野次馬根性から立候補したらアレヨ、アレヨという間に決まっちゃったものです。VIP意識なんて全くありませんでした。

ー 女王陛下からの招待状ともなると、欠席するわけにもいかないですよね。

宮本: そうなんですよ。先ず、着て行くものに困りました。家内は着物という伝統的で、フォーマルでも通用するものがある。しかし、駐在員男性は和服の用意までないし、男の羽織・袴がロンドンでフォーマルな着衣として通用するかどうかもよくわからない。仕方がないので、日本大使館の社交儀礼担当者に相談しました。

ー なるほど。相談に乗ってくれましたか?

宮本: 生真面目そうな一等書記官が喜んで応じてくれました。その人がいうには、最近は平服でもよいということにはなっていますが、バッキンガム宮殿に入るなら矢張りシルクハットにモーニングでしょう。恐れ多くも女王陛下ですから、と言う。ついでに、モス・ブラザーズという貸し衣装屋まで教えてくれました。このモス・ブラザーズというのは世界一の貸し衣装屋で、エスキモーでもホッテントットでも合わない服はないと言われているらしいです。

ー で、モス・ブラザーズで、モーニングとシルクハットを借りられたのですか?

宮本: それが、惨憺たる結果でね。お世辞抜きに客観的な評価をするという意味で家内に同伴してもらいました。店に入ると、担当の男が私の体型をチョット見ただけで、ワン・セットを持ってきました。シルクハットもモーニングも身体にピッタリでした。流石は、モス・ブラザーズと感心して、鏡を見たのです。すると、身体にピッタリ合うこととその衣装が自分に似合うことは全く別の次元だということが分かったのです。私のように胴太短足の伝統的日本人体型にはシルクハットにモーニングはどう見ても似合わない。

ー 客観的評価者の奥様は何と言われたのですか?

宮本: 家内は「アフリカのペンギンみたいだ」というのです。

ー アフリカにもペンギンは居るのですか?

宮本: いや、南極のペンギンは色が白いが、あなたは色黒だからアフリカのペンギンだというのです。一瞬、腹が立ったのですが、よく鏡を見ると、口惜しいけれども、まさに言い得て妙なんですね。こんなもの、無理して着ることはないと、全部脱いで放りだしたらスッキリしました。(笑)

                                       

ー すると、園遊会は平服で出席された。

宮本: そうです。よく見ると、アフリカのペンギンが何人かいましたね。自分は平服でよかったと、ホッとしました。


ー それでは、この辺でそろそろジャーナリストとしての宮本さんを離れて、教育者、作家としての宮本さんに話題を移しましょう。
先ずたくさんの著書がありますね。私は偶々3冊の御著書を拝見しました。「英語語源辞典」と「こんなイデオム・決まり文句」。この2冊は英語の参考書とでもいうべき本です。とても幅広く語源や俗語を集めておられます。例えば、highjack の語源ですが、私は「飛行機を乗っ取る」から連想して「高いところでやる犯罪」というのが語源かと思っていました。が、”Stick 'em up, high, Jack.”と命じてカネを取ったことからという説明。また、ambulance chaser という表現。何かで見て、どういう意味か分からなかったのですが、「交通事故の被害者などを追っかけて、訴訟を勧める弁護士」のこと。この説明でストーンと来ました。いかにも訴訟社会のアメリカらしいです。もう一冊は「大統領たちのアメリカ」。これは、戦後のアメリカ大統領、トルーマンからクリントンまでの業績に点数をつけようとする、ジャーナリストとしての面白い試みです。が、WASPとは無縁のオバマや型破りのトランプまで書いてほしかったと思います。


            



 上梓された御著書は全部で何冊くらいあるのですか? 私は50冊くらいと推測しましたが…。その中で、著者としてベスト・ファイブを選ぶとしたら、どうなりますか?これは、よく売れた本というより、御自分で達成感のある本という視点から挙げていただきたいのですが。

宮本: 著書の数は全部で40冊以上でしょう。ベスト・ファイブといえるかどうか、上の3冊に付け加えるとしたら、『アメリカ・民族という試練』、『日本はなぜ孤立するのか』、『笑うネイティブ』くらいでしょうかね。

                


ー 上梓される本以外にも、定期的に雑誌か何かに書いておられるのですか?
 

宮本: はい、3種類の新聞、雑誌があります。一つは郷里和歌山の地方紙で『紀伊民報』という新聞に、週1回コラムを書いています。それから、私は魚釣りが好きで昔はよくやりました。今では講釈だけですが、漁業の専門誌『全水卸』(全国水産卸協会)の会報。例えば、今年の11月の会報では「鮭と人間の深いつながり」というエッセイを書いています。また、政治・経済の専門紙『世界と日本』。これは毎週月曜日に内外ニュースから発行される新聞ですが、これにも定期的にコラムを書いています。
紀伊民報では、時々講演会の講師に呼んでくれます。郷里の方ばかり100人近く集まって、講演のあと、和気あいあい、旧交を暖めます。

ー 講演会ではどういうお話をされるのですか?

宮本: 外国の話のときもあれば、日本の政治、文化など、色々ですね。人生の岐路の体験談なども面白いと言ってくれます。

[注] 紀伊民報の電子版はウェブでも公開されている(→ こちら)。
                                   
ー 人生の岐路というと、19歳の時の分かれ道ですね。村の先生として静かな一生を送るか、世界に雄飛して華やかな人生にするか。結局、後者を選択されたわけですが、その時の選択は間違っていなかった?

宮本: いや、簡単にはどちらともいえないでしょうね。私は自分の選んだ生き方を、尾籠な表現ですが、「早飯、早糞、早走りの人生」と呼んでいます。私の生まれた世代は「戦中派の最後、戦後派の走り」と位置付けています。私の世代を前提にすれば、「早飯、早糞、早走り」は当然の選択だったかもしれません。でも、人生90年近くも生きると、一方で、尾崎放哉や種田山頭火のように思うがままの放浪生活にも憧れを感じますね。

ー その気持ち、分かります。私には4人の娘が居るのですが、長女はオーストラリアのアデレードであちらの人と一緒になって永住しています。数年前、アデレードに行ったのですが、あちらでは、時間がすごくゆっくり流れているのです。森のベンチに腰をかけてユーカリの巨木を眺めていると、今まで自分が忙しく生きていたことが間違いだったのではないか。忙しさに酔っていただけではないのか。大自然の懐に抱かれて悠久の時を過ごすことの価値を過小評価していなかったか、と反省させられたのです。

宮本: いや〜、ウチの娘も外国人と結婚してパリで暮らしているのですよ。何だか、中村さんとは共通点が多いですな。(笑)

[注] 宮本さんの現在のお住まい(府中市小柳町5丁目)と同じ町内に管理人は、以前、2年ばかり暮らしたことがあります。また、管理人は産経新聞の大ファン。他の新聞は読まないです。それに、管理人も宮本さんと同じ「日本エッセイスト・クラブ」のメンバーでもあります(例会で顔を合わせてことはありませんが)。

ー そうですか。では、そのお嬢さんの話を少し伺いましょうか。。

宮本: 小柳町の我が家は、今では家内と2人暮らしです。子どもは2人、息子と娘です。息子の方は家庭を持って日本で暮らしていますが、娘はパリ在住です。もともと、ロンドンやニューヨークに帯同しましたから英語はネイティブ並みで、会話などは私より遥かに上手です。娘は家内以上に気の強い女で、日本人の相手は先ず無理だろうと思っていました。娘はパリの国際機関に就職し、案の定、職場でスコットランド人と知り合い、あっさり結婚しました。冒頭で、エバンストンのトンプソン氏の話をしましたが、娘の選んだ彼は、そのトンプソンさんに似たところがあります。家内はトンプソンさんの大ファンなので、「選りにも選って、トンプソンさんのような理想の男性を選んでくれた」と大喜びでした。

ー 娘さんにお子さんは?

宮本: 双子の孫娘がいます。娘は30歳後半で結婚しました。赤ちゃんができる時は高齢出産で大変でした。一時は母子ともに危ないという状況でした。連日、パリの新郎に電話して元気づけました。やがて、容体は快方に向かい、娘と2人の孫が元気だと聞いて、心からホッとしました。昨年、日本でいう小学4年になったとき、向こうの夏休みが早く始まるのを利用して、娘が日本の学校に孫2人を20日間ほど通わせて体験学習させたいと言いだした。在留邦人の間で子どもにこういう体験をさせることが流行っているのだそうです。それで、孫たちだけで一時帰国してきました。

ー お孫さんは日本語を喋るのですか?

宮本: ほとんどダメですね。パリでは英語校に通っているので、家で話すのも英語だそうです。日本の学校では、体験をお願いする先生が少し英語を話されたのと、娘たちの片言の日本語もあって何とかコミュニケーションはできたようです。

ー 2人のお孫さんが日本滞在中のエピソードがあれば紹介していただけますか?

宮本: 1ヵ月足らずの滞在ですからあまりビックリするようなことはなかったのですが、印象に残っていることをお話しすると、先ず、学校に行った初日、日本の生徒たちに色々と質問されたようです。「好きな食べ物は?」と訊かれて、「オニギリとタコヤキ!」と日本語で答えた。フォアグラとか何とかフランス料理が出てくるものと期待していた級友の爆笑を買ったそうです。

 また、ある時は、休みの日にクラスの友だちを我が家に招待しました。女の子6、7人がそれぞれピカピカの自転車でやってきた。我が家には正に珍客です。が、家内も私も小学生の女の子たちをどうやってもてなせばいいのか分からない。幸い、その日はいい天気なので、家の前の多摩川の河原に案内しました。中村さんも御存知の場所です。

ー ハイ、よく覚えています。

宮本: 河原には色々な草が生えていて虫の宝庫です。将来、昆虫学者になりたいという妹の方は、早速、草の中から1匹のカマキリを捕まえてきました。カマキリはパリではとても珍しいそうです。カマキリは英語では a praying mantis。mantis の語源はギリシャ語の mantis で「予言者」という意味。だから、「予言者が祈っている」というキリスト教的なネーミングですね。一方、日本語の語源は「鎌切り」。鋭い鎌で何でも切ってしまうという意味。「鎌」という漢字からすれば農耕文化のイメージが強い。名前の付け方にも東西の文化の違いがあります。そんな説明を私がすると、妹は興奮して「明日、学校にカマキリを持って行ってみんなに話す」という。日本の小学生では自分の発見を学校に持って行ってみんなに聞かせたいという発想はとてもできないです。でも欧米の学校では、それだけ個人の意見を大切にするということでしょうね。


                                  


ー それで、実際に学校にカマキリを持っていったのですか?

宮本: 持って行きました。一応、それなりの反響もあったらしいですよ。

ー 宮本さんの話を色々とお伺いしていたら、若い頃は色々と御苦労もされたようですが、それらの経験を御自分の武器として身につけられ、その後の人生を堂々と乗り切って来られたように思います。ここまでの人生のスコアカードを御自分でつけるとしたら何点くらいをおつけになりますか?

宮本: まあ甘くして80点でしょうか。

ー 本日は、長時間有難うございました。


 [インタビュー後記]

 宮本さんとのアポイントがまとまった時、宮本さんから次のようなメールをいただいた。
「それでは17日(金)正午プレスセンターでお願い致します。私は少し早い目に行ってロビーで
お待ちしていますので、受付に『宮本と会う』とお伝え下さい。『どのハゲ老人がそうか』教えて
くれるように頼んでおきます。」


 この親しみを感じさせるメールからも、それに「府中市小柳町」、「日本エッセイストクラブ」、
「産経新聞」などの共通点からも、初めてお会いする方という堅苦しい先入観はなかった。
実際、お会いしてみると、とても気さくな方。初対面なのにクラブのランチを御馳走になった。
お話ししてみると、英国、米国の特派員をされた国際的ジャーナリストなのに、日本文化にも
精通されていることが分かった。こういう先輩こそが、神戸外大を全国に飛躍させる上での
パイオニア―の1人だったのだろうと確信する。バーチャルで恐縮だが花束を贈呈したい。

 帰りに、記者クラブの中が異様に慌ただしく、VIPの記者会見があるとかで内外の新聞社の
人たちが右往左往していた。玄関には米国大使館の高級車が横付けされていて、ただならぬ
気配。係の人に訊いたところ、ハガティ駐日米国大使が記者会見を行うのだという。なるほど、
トランプ大統領の訪日と関係があるのだろうとウェブ情報を捜してみると、関連の記事が見つ
かった(→ こちら)。



              2017年11月17日取材            管理人



   バックナンバーは下記の氏名をクリックして御覧下さい。

 第1回 文藝春秋社長/平尾隆弘氏(学19E)  2012年3月取材

 第2回 陶芸家/濱村(旧姓 木戸)祐子氏(学31E) 2012年10月取材
 第3回 レアメタルのトレーダー/西野元樹さん(学46P) 2013年4月取材
 第4回 透明水彩画家/若葉恵子さん(学30C) 2013年6月取材
 第5回 現代ロシア文学翻訳家/織田佳子さん(学25P) 2013年9月取材
 第6回 青山学院大学名誉教授/寺谷弘壬さん(学9P) 2014年1月・2月取材
 第7回 起業家/西尾義彦さん(学12EA) 2014年5月取材
 第8回 横笛奏者/松尾慧(大浦典子)さん(学25P) 2014年7月取材
 第9回 起業家/荻野 正明さん(学14P) 2015年1月取材
 第10回 スペイン語翻訳家/荻内勝之さん(修 H1) 2015年11月取材
 第11回 東京中央区議会議員/堀田弥生さん(学38P) 2016年8月取材




                                
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