お邪魔しま〜す! 第13回




 第13回は三味線を持つ姿がサマになる、三味線・端唄師範の若宮千世鶴(ワカミヤ・チヨツル)コト、吉井(旧姓:森口)優子さん(学24P)に登場願います。

 2019年6月の関東支部同窓会に出席された方は左の写真に見覚えがあるだろう。そう、懇親・昼食会のアトラクションで最初に登場し、三味線単味のプロの演奏と、お座敷小唄から有名な江戸端唄「梅は咲いたか」で、素晴らしい喉を披露された。

 御本人に言わせると、「普段は畳の上に正座して三味線を弾くことが多く、椅子に座って弾くのは苦手」と、当日の演奏にイマイチ満足できない様子だったが、邦楽素人の聴衆は素晴らしい演奏だと受け止めた。

 管理人もその1人で、「ビン・ビン・ビン」と景気よく響く三味の音に聴き惚れていた。と同時に、大学でロシア語を勉強していたのにどういう事情で邦楽の道に入ったのだろうという疑問が湧いてきた。実は、吉井さんの次に登場した横笛の松尾慧さん(学25P)には、5年前に同じ動機からインタビューした経緯がある(→こちら)。

 そして、同窓会が終わると直ぐにインタビューを申し込んだ。快諾を貰ったものの、お互いの日程と場所の調整に手間取った。浦安の舞浜にお住まいの吉井さんと東京の西端・大田区の多摩川の辺りに住む管理人では場所を決めるのも難航した。実現したのは同窓会から4ヶ月近くが過ぎた10月の下旬だった。場所は、JR新橋駅・汐留口にある喫茶「ルノアール」2Fの「マイスペース」。吉井さんは、毎週木曜日、新橋にある杵屋五吉郎師の御自宅に長唄・三味線のお稽古に行かれる。その前に立ち寄ってもらった。

            



                          
ー お邪魔しま〜す。お忙しいところ、お出でいただいて恐縮です。早速お伺いしますが、お生まれはどちらですか。それと高校は?少女時代はどんな女の子でしたか?

吉井: 生まれも育ちも大阪です。東住吉です。高校は天王寺高校ですが、幼稚園、小学校、中学校とずっと公立校なので、特に際立った特徴はなかったように思います。ただ、小学校時代から相当な本の虫というか、読書好きの女の子でした。あまり本ばかり読むので、一時、仮性近視になり、母が慌てて読書時間を制限したほどです。

ー 何か習い事はされていましたか、それと高校での部活は?

吉井: 6歳の時にピアノを習い始めて中学3年まで続いていました。高校ではバレーボール部に入りました。

ー ピアノはどうして辞められたのですか?

吉井: 母の勧めで始めたのですが、中3になると高校受験でピアノどころではなくなって辞めました。そして、高校でバレーボールを始めると、よく突き指をするので、もうピアノを弾く指ではなくなってしまいました(涙)。その代わりでもないですが、大人になってから趣味でお琴を習いました。元々、我が家は邦楽一家で、祖母は長唄、祖父は尺八、父は小唄が趣味でした。お琴を始めたのもそういう環境からかもしれません。お琴は楽しかったです。

ー そうですか。森口一家には邦楽のDNAが流れているわけですね。で、神戸外大でロシア語を選んだのは、どういう動機からでしょうか?

吉井: 以前ピアノをやっていたお陰で、ロシア民謡やチャイコフスキーのメロディに触れる機会が多かったのです。ロシア音楽そのものが好きでした。もちろん、それだけではありません。当時、ソ連を仮想敵国のように言う人もありましたが、世界第2の大国でした。今後は、きっと交流も増えるだろうから、英語とロシア語の両方を学んでおけば、社会に出る際の力になるのではないか、と漠然と考えていました。


ー そうですか。ということは、英語もお好きだった?


吉井: ハイ、英語は大好きでした。だから、外大でも英語の講義は真面目に出て勉強しました。

ー 英語とロシア語を征服すれば鬼に金棒ですね。で、肝心のロシア語はどうでしたか? 面白かった?

吉井: 嫌いじゃなかったですが、とても難しかった。ていうか、手強いという感じですかね。だから、大学4年間では時間切れだったように思いました。でも、好きだったので、後ほど浦安市に越してからもロシア語の勉強を再開しました。

ー そうですか。その話はまた後ほどお聞きします。で、外大では勉強の他に何かクラブ活動等は?

吉井: 大学では弓道部に入りました。1年から3年まで続けて、弓道2段までとりました。

ー 高校ではバレーボール、大学では弓道ですか。スポーツはお好きなんですか?

吉井: 嫌いじゃなかったですね。でも、体育会系の活動は弓道でお終いになりました。

ー ロシア語の学習の中で想い出に残る出来事が何かありますか。語劇祭にでられたとか。

吉井: 語劇祭とは縁がありませんでした。思い出に残るとすれば、授業で習ったレールモントフの「現代の英雄」ですかね。とても良かった。感動しました。

ー 「現代の英雄」、“Герой нашего времени” 私も大好きでした。桜木先生から習いました。

吉井: 桜木先生、私たちも習いました。

ー えっ、吉井さんは24回生、私は12回生。12年も離れていて、桜木先生はまだお元気だったのですね。私たちが習った日本人の先生は久保先生を筆頭に、桜木、小松、松川、沢田の先生方です。今はもう全員鬼籍に入られていますがね…。

吉井:今言われた先生方、全員に私たちも習いました。

 ー プレトネル先生は知らないですよね。

吉井: お名前は伺ったことがありますが、教えて頂いたことはありません。碓か、とても偉い先生だったとか。

ー そうなんですよ。素晴らしい先生でした。大阪外語の先生なのですが、神戸外大でも教えておられた。ホント、偉大な方でした。御自分の専門は「エチモロギヤ(этимология)語源学」だと言われていました。

 だから、日本の俳句をロシア語に翻訳するのが得意で、何時だったか、「朝顔に釣瓶とられてもらい水」という加賀千代女の句をロシア語に翻訳してみせたのです。 最初の方は忘れましたが、「もらい水」だけは今でも覚えています。”пойдука за водой”と黒板に書かれて、「по」と「за」に強いアクセントを置いて「パイドゥーカ・ザー・ヴァドイ」と、拍子を付けて読まれた。素晴らしいと思いましたネ。

吉井
: ホントに、それは素晴らしいですわ。
(イラスト; Bing.comより)

ー さて、そろそろ外大を卒業しますか。1975年、卒業して直ぐにJALの大阪支店に入社されたのですか。

吉井: はい。最初、ゼミの松川教授から神戸大学の研究室助手の話を頂いたのですが、3年契約でした。それよりも若いうちは企業で働きたいと考えて、学卒女子を採用する数少ない企業の1つ、日本航空に入りました。

ー 最高の就職先じゃないですか。試験は難しかったのでしょ。

吉井: さぁ、どうでしょうか。英語の試験もありましたが、私は英語の勉強もしていましたし。私が合格するのだからそれほど難しくなかった?

ー いや、そんな! 見事、難関を突破して最高の就職先に入られたのですよ。仕事は面白かったですか?

吉井: とても楽しかったです。それに同期の方もいい人ばかりで。あっ、そうそう。私、あの植木義晴さんと同期なんです。航空大学を出て、パイロットとして入ってこられました。

ー 植木義晴さんって、あの植木さんですか。社長になって、倒産しかかっていたJALを見事に再建された。碓か、片岡千恵蔵の息子さんだとか。

吉井: そうです。その植木さんです。でも、映画スターの息子さんっていう感じではなかったです。植木さんは、今でもJALの現役の会長さんです。特に親しかったわけでもないですが、あんな有名な方と同期入社というのが、何となく誇らしい気がしています。

ー そして、翌年に結婚される?

吉井: はい。そうです。私は旅行好きだったこともあって、ずっとJALで働きたかったのですが、4年後に妊娠して、主人にも東京へ転勤辞令が出たのです。

ー 失礼ですが、御主人とは社内結婚ですか?

吉井: いえ、実は、主人は天王寺高校の同級生なんです。

ー そうですか。そういうことなら、すこし詳しくお訊きしたいですね。

吉井: 矢張り、そうなりますか。(笑)

ー 私の高校、神戸高校ですが、私の学年でも同級生結婚が10組以上もありました。同級生結婚の話、とても興味があります。話せる範囲でお話願えますか? 御主人はバレーボール部の方かな?そして、高校時代からアツアツだった?

吉井: いいえ、主人は野球部員でした。2年生のとき一緒の組になりました。そして、修学旅行以降グループ交際で付き合い始めました。グループ交際なので、私たちだけアツアツというわけにはいきませんでした。

ー 大学時代、御主人は関西に居られた?

吉井: いいえ、東京でした。遠距離恋愛だったのです。だから、長く続いているのかも知れませんね。(笑) 神戸高校と同じように、天王寺高校も同級生結婚は結構多いですね。私たち同様、皆さん仲良し夫婦ですよ。

ー そうですか。大体分かりました。で、妊娠されて上京。浦安の舞浜に住まれたというわけですか。いいところですね。

吉井: 越してきた当時は、未だ海岸では埋立工事の最中で、あまりいい印象はなかったです。

ー 東京ディズニーランドは未だ出来ていなかった?

吉井: ええ、あれが開園したのは、1983年の春でした。私たちが来た時は、どこもかしこも工事中でした。出来てしまうと環境も整備されて、徐々に住みやすい町になっていきました。今は快適です。

ー 最初のお子様は、浦安で出産されたわけですよね。

吉井: 長女が生まれたのは1980年。浦安に移ってすぐのことですが、出産したのは実家の夙川(シュクガワ)でした。それから3年後に息子2人が生まれました。双子でした。だから2人共ディズニーランドと同い年です。

ー ダブルの意味で、一姫二太郎ですね。しかも、お子さんが少し成長すると、日本一の遊園地がすぐ近くにある。子育てには理想的でしたね。

吉井: ディズニーランドは、お金もかかるし、しょっちゅう行けるわけではないですが、アクセスがいいのは便利です。それと、子どもたちが短期間で3人できたので、トータルの子育て期間が短かったというのはラッキーでした。

ー そうですね。しかも、お子さん3人なら、少子化の歯止めにも貢献していることになる。短い期間で子育てをほぼ卒業されて、再び外に羽ばたきますね。まず、手始めはロシア語学習ですか?

吉井: はい、これもラッキーなことに、浦安市の国際交流協会というところにある語学研究会でロシア語の講習をやっていました。直ぐにエントリーして、ナージャさんというロシア人の女性の指導を受けました。慣れてくると、先生というより友だちのようになって、一緒にドライブしたり、ロシア料理を教えてもらったりして、自然な形でロシア語が身についていくように感じました。

ー 確かに、ロシア人の友だちとの交流を通して、自然な形でロシア語が身についていくというのはラッキーな経験ですネ。ロシア語の先生はナージャさんだけでしたか?

吉井: いえ、もう一人、日本人の先生が居られました。東京外語のロシア語を卒業された方で、外務省に勤務する外交官でした。アッ、その先生、後に、当時のレニングラードの総領事館に赴任されました。で、出発される際、「御主人と遊びに来られませんか」と誘われ、その気になりました。

ー で、行かれたのですか?

吉井: はい、1989年に主人と2人で初めてのソ連旅行にでかけました。でも、タイミングが悪く、ソ連崩壊前の混乱に各地で遭遇しました。ハバロフスクやイルクーツクの空港では、理由はよく分からないのですが飛行機は飛ばず、何日も空港ロビーで夜明かしする羽目になりました。旅程が進まず滞在ビザの期間が切れそうになっても、インツーリストでは何も出来ない。唯一嬉しかったのは、一人の女性空港職員が、自分の当直用ベッドを私たちに提供してくれて、自分の着ていたアエロフロートの制服を上に掛けてくれたことです。

ー それで、その日本人の先生とは会えたのですか?

吉井: いいえ、結局、お会いできませんでしたが、モスクワのホテルに電話を頂き、お話することは出来ました。

ー そうですか。何れにせよ、初めてのソ連旅行では散々な目にあったわけですね。

吉井: そうです。だから、私たちが帰国した翌年にはゴルバチョフは失脚。ソ連は崩壊に向かいました。私たちは「やっぱりね」とうなずき合いました。

                           

ー それでは、次にJR東日本のインフォラインの話を伺いましょうか。アッ、その前に子育てしながら、在宅勤務の仕事をされていましたね。

吉井: ええ、DHCという翻訳会社で翻訳の仕事をしていました。仰るように、これは在宅勤務でした。でも、3年足らずで辞めました。

ー DHCというと、化粧品やサプリメントの通販をやっている、あのDHCですか。

吉井: そうです。あの会社は今は手広くやっていますが、翻訳会社がスタートなのです。だから、DHCというのは、何の省略かご存知ですか?

ー いいえ、知りません。

吉井: 「大学・翻訳・センター」の省略なんですよ。

ー 何ですか、それ。人を喰ったようなネーミングですね。誰も知らないでしょう。

吉井: ええ、知る人ぞ知るですね。あのくらい大きくなってしまうと、今更、「大学翻訳センター」などと言えなくなったんじゃないですかね。でも、私が勤めていた頃はネーミングに相応しい、小さな翻訳会社でした。

ー 在宅勤務だと言われいましたが、事務所に行く機会もあったのですか?

吉井: はい、打ち合わせなどで、時たま、六本木にあるこじんまりした事務所にでかけました。その時に聞いたのですが、神戸外大の卒業生が2人も働いておられて、ちょっとビックリでした。

ー そうですか。恐らく何かの事情で働くことになったのでしょうね。では、次にインフォラインのお話を聞かせていただけますか。

吉井: 子供たちが全員小学生になった1989年に、そろそろ外に出て働きたいと、求人募集を探していました。その中で、JR東日本の外国人向け案内の仕事に興味が湧きました。これは、JRが外国人専用の案内部門を立ち上げるための求人で、募集要項には、『旅行業務経験3年以上、日常英会話必須 シフト勤務』というだけで詳細は伏せてありました。

ー それは、JR東日本の採用試験ですか?

吉井: いえ、正確には、JR東日本は、この仕事をアウトソーシングするものです。だから、採用試験も JR東日本の下請けをする会社の採用試験です。

ー 旅行業務経験はJALに5年も勤めたのだから問題なし、ですね。英会話は勉強されていたんですか?

吉井: はい、JAL勤務の5年間は英語を使う仕事が多かったのです。辞めた直後に、将来役に立つかも知れないと、英検1級を取りました。浦安に来てからも町の英会話学校に通っていました。英語に限らず外国語は少しブランクが出来ると直ぐに忘れてしまうので、できるだけブランクを作らないように努力しました。

ー 素晴らしいですね。私なんか、1964年の東京オリンビックでロシア語の通訳をやったのですが、その後、就職して1年ほどロシア語とは無縁の生活を送ると、もうスッカリ忘れましたから。で、最後のシフト勤務という条件はむしろ有り難かったのでは?

吉井: そうなんですよ。子どもたちが未だ小学生なので、自分の都合の良いシフトをリクエストできるのはとても有り難かったです。

ー どの条件にも適合して、採用試験にも見事合格ですね。

吉井: お陰様で合格しました。


ー それでは、インフォラインの仕事の中身について少し紹介していただけますか。

吉井: JR East Infolineは、訪日・在日外国人のためのJR東日本の外国語版コールセンタ―のような仕事で、30年前の発足当時は英語のみのサービスでしたが、今は英語と中国語、韓国語の3か国語対応です。2002年の FIFAワールドカップ日本開催の折には、フランス語、ドイツ語、スペイン語を加えた6か国語対応も行いました。本当に世界中の色々な国のお客様からお電話を頂き、色々と面白い話もありますが、社内のプライバシー保護規定もあり、具体的なお話しはできないのが残念です。赤道ギニアやトリニダード・トバゴなど、自分で行くこともなさそうな国の方とも話せるのは楽しかったです。

ー コールセンターとなると、面と向かって話すわけではないので、聴き違えることも少なくないでしょう。

吉井: そうですね。特に固有名詞の発音が人によって違うので困ったこともあります。以前雑誌に紹介されたケースを少しお話しますと、先ず、外国人がよく行く箱根ですが、これの発音が「ヘイコン」になります。また、神戸は「カベ」です。青梅線に河辺(カベ)という駅があるのですが、神戸の「カベ」と混同しやすい。「カベにはどう行くの」と訊かれて案内すると「なぜ、そんなに近い?」となります。また、ある時は、日光に行きたい方が、「今アサクサに居るが乗り場が分からない」。東武浅草の駅を教えてあげたものの、この人、実は、赤坂に居られた。そんな事例もありました。

ー 答えに困るような質問もあるでしょうね。

吉井: ありますね。例えば、ラッシュアワーの話が出たので、苦情を言われるのかと思ったら、「電車に乗り切れない人の背中を駅員が押している写真を見たことがある。それは、どの駅のどのホームに何時頃に行けば見られるか?」と来る。これは、なかなか難しい質問ですね。(笑)

                                  

ー この仕事は今も続いているわけですよね。何時頃まで続けるおつもりですか?

吉井: 1989年から始めたので、丁度30年になります。本来なら、私はもう定年に達しているのですが、JR側としては、来年のオリンピックまでは続けてほしい意向のようですので、もう1年ですかね。

ー それでは、そろそろ、本題のお仕事についてお話を伺います。まず、邦楽を始める切っ掛けのようなものがありますか?

吉井: 実は三味線との出会いは偶然の重なりでした。家族が増えたので浦安市内で広い戸建てに引っ越した折、たまたま隣に住んでいたのが杵家弥七若という女性長唄師匠。毎日聞こえてくる長唄三味線の音色と迫力に感動し、それまで趣味で楽しんでいた箏は辞めて本気で長唄を教えて頂くことにしました。


ー それは、冒頭にお話された、森口家のDNAに関係しているとお考えですか?

吉井: 多分そうだと思います。私自身は5歳から中学3年までピアノを習っていて、三味線など考えたこともありませんでした。それが、大人になって東京で聞く長唄三味線の音色に私の中の森口家系のDNAが共鳴したのではないでしょうか。

ー それで、杵屋弥七若師匠にはまだ習ってらっしゃる?

吉井: いいえ。師匠宅はお隣でしたから、殆ど休むことなく23年通い続けましたが、師匠が 90歳を過ぎて耳がご不自由になられたため、6年前から新橋の長唄プロ杵屋五吉郎師に入門して現在に至っています。

ー 杵屋五吉朗師とはどんな先生なのでしょうか?

吉井: 五吉郎先生は、歌舞伎で成駒屋や中村屋の舞台でタテを務める長唄三味線演奏者の重鎮。長唄は歌舞伎のBGM音楽ですから、歌舞伎に立てるのは男性だけということもあって長唄プロは男性社会です。でも、お稽古しているのは女性の方が多く、同じ歌舞伎音楽の清元や常磐津でも、昔は「女性が教えて男性が舞台に立つ」と言われていたそうです。

ー お名刺にある「若宮千世鶴」というお名前は、五吉郎先生とはどういう関係になるのでしょうか?

吉井: そちらは、五吉郎先生とは関係ありません。2001年に金婚式を迎えた父が、その祝の席で小唄を唄いたいから三味線を弾いて欲しいと言い出しました。小唄の三味線はバチではなく爪弾きで、長唄とノリが違います。それで、小唄の三味線を舞台用に1曲だけマスターしておこうと思い、小唄家元の若宮三千代師にお願いしました。師匠のお母様は芸者で、当時 80歳近かったのにとても美しい方でした。 父のために1曲だけ稽古する予定だったのですが、偶々、三味線をきちんと弾ける人が門下に居ないからとか何とかと引き止められ、すぐに家元の伴奏のために舞台出演させられる羽目になってしまいました。

ーそれで?

吉井: 思いがけない成り行きでしたが、唄と三味線の指導以外にも、たくさん実地での勉強をさせて頂き、結局、19年も続いています。その間、NHK・FMラジオ番組の「邦楽のひととき」に出演、キングレコードのスタジオで CDの録音、高輪プリンスホテルのディナーショーでは「新内流し」など。
  100回の稽古より1回の舞台といいますが、どれも決してお金では買えない貴重な経験でした。沢山の経験と本番で修業をさせて下さった家元に感謝しています。 端唄で「若宮千世鶴」小唄で「若宮三千鶴」のお名前を頂き、師範名取りになったので、10年以上前に自宅で三味線と端唄を教えることを始めました。

   

 写真左から:高輪プリンスホテル、湯島天神、キングレコードにて

ー いや〜、ミイラ取りがミイラになったようなものですね。でも、そうやって段々高みに上がっていかれるわけですよね?

吉井: そうだと思います。これも、私を導いてくださったたくさんの方々のお陰です。

 

    四谷区民ホール 2019年8月17日

 この日の演奏を YouTubeに録画したものです。音声を[ON]にして聴いて下さい。

 https://youtu.be/auRU5v1N2Bw

 https://youtu.be/cRH_RtuuuqA

 https://youtu.be/jt8Cc-HTbgM

 https://youtu.be/G-lGNrxsr48


 
ー それだけではないでしょう。その裏には、御自身の前進意欲と弛まぬ努力があるからこそ、階段を昇って行かれるのです。それで、お弟子さんたちを教える師匠としての成果もあがってきているのでしょうか。

吉井: シフト勤務の仕事をしていますので、ほんの隙間時間で教えるくらいでしたが、お弟子さんたちが皆さん熱心で、この3月には「浦安音楽ホール」で第10回記念会を開くことも出来ました。この時はお祝いに、獅子舞や江戸芸カッポレ社中も呼んで大変賑やかな会になり、200席のホールに230名以上も来場する盛況でした。 子供たちのためにシフト勤務を選びましたが、そのおかげで三味線のお稽古を長く続けることが出来、またそれが、将来に結び付いたことは大変幸せに思います。

ー いま、将来の話が出ましたが、この先、五吉郎先生の弟子として、また端唄の師匠として、更に、願わくば JR東日本のインフォラインの経験をもインテグレートした、将来ヴィジョンを描きたいですね。

吉井: ヴィジョンと言えるのかどうか、漠然とした夢ならあります。それは、内向きには、地元の人達を集めて、三味線を中心に据えて、気軽に邦楽を楽しむ会を作りたいのと、外向きには日本に来られる外国人の一人でも多くに三味線音楽の楽しさを味わってもらうための集いのようなものを作ることでしょうか。 

ー 今日は、お忙しいところを大変有難うございました。


【インタビュー後記】

 この記事の冒頭に書いたように、今年の同窓会で見かけた吉井さんの着物姿は決まっていた。
若い女性が華やかさを装う着物姿とは違って、白無地の着物をピタツと着こなした姿にはある種の
オーラが感じられた。

 インタビューに見えた時は洋服姿だった。そこには、着物姿とは異なった彼女の顔があった。私の
勝手な分類では、着物姿の吉井さんはよそ行きの顔、洋服姿は普段の顔だ。普段の顔の吉井さんは
能弁だ。吉井さんは外大を卒業してから、JAL、DHC、JR東日本インフォラインと、英語をベースにした
仕事を続けてこられた。これが、洋服姿の吉井さんだ。が、30年近く前に、邦楽の世界に取り憑かれ、
三味線、長唄、小唄とジャンルを拡げて来られた。こちらは、着物姿の吉井さんだ。JR東日本インフォ
ラインの仕事が、来年で収束することになれば、これからは着物姿の生活がメインになる。本人は意図
しているわけではないが、ある意味でこれは、ライフスタイルの鮮やかな転換かもしれない。

 人生を登山に例えるならば、頂上を目指すまでの上りの人生は洋風で、下り坂の人生は和風で、
人生を二度楽しむことができる。「百歳時代プロジェクト」が話題になる昨今、ひょっとすると、吉井さんは
新しいライフモデルを他人に先駆けて示してくれるかも知れない。


           2019年10月24日取材      管理人








   バックナンバーは下記の氏名をクリックして御覧下さい。

 第1回 文藝春秋社長/平尾隆弘氏(学19E)  2012年3月取材

 第2回 陶芸家/濱村(旧姓 木戸)祐子氏(学31E) 2012年10月取材
 第3回 レアメタルのトレーダー/西野元樹さん(学46P) 2013年4月取材
 第4回 透明水彩画家/若葉恵子さん(学30C) 2013年6月取材
 第5回 現代ロシア文学翻訳家/織田佳子さん(学25P) 2013年9月取材
 第6回 青山学院大学名誉教授/寺谷弘壬さん(学9P) 2014年1月・2月取材
 第7回 起業家/西尾義彦さん(学12EA) 2014年5月取材
 第8回 横笛奏者/松尾慧(大浦典子)さん(学25P) 2014年7月取材
 第9回 起業家/荻野正明さん(学14P) 2015年1月取材
 第10回 スペイン語翻訳家/荻内 勝之さん(修 H1) 2015年11月取材
 第11回 東京中央区議会議員/堀田弥生さん(学38P) 2016年8月取材
 第12回 文教大学名誉教授・元産経新聞海外特派員/宮本倫好さん(学3EC) 2017年11月取材




                                                                                                                   
                                
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